April 10, 2002

1987年 初サラウンド ドラマ 制作記 復刻版

FMサラウンドドラマ「シュナの旅」制作記(「放送技術」87年9月号 復刻版!)
鈴木清人 沢口真生 若林政人
  
[ はじめに ]
 85年11月以来、ラジオドラマをPCM制作で行ってきたが、今年5月放送の「シュナの旅」では、それに加えて、サラウンドでのドラマ制作を試みた。放送になった作品としては、NHKで初のPCM-サラウンドドラマとなったが,その制作を担当した立場から初体験記を紹介したい。

1.サラウンド制作への試み
 サラウンドは,元来映画の制作手法として、ここ数年のうちに定着してきた手法で、大画面と迫力ある音響効果が、観客をその作品の世界への没入させる有効な方法となっている。
一方、ビデオの世界でもこうしたサラウンド制作が多く出されるようになってきている。
NHKでは、来るハイビジョンの実用化を目指す観点から、A-Vの相乗効果によるサラウンドミクシングについてのノウハウの積み重ねを行っているが、あくまでもクローズの世界でしか行われていないのが現在である。
現行メデイアを利用し、実際のリスナーの方々へ届いた反応は、どうなのか、またそうした試みに最適のメデイアと作品はないものかと、演出スタッフとも検討を行っていたが、今回の“シュナの旅”は、壮大なイメージの世界で、無限の広がりを感じさせる原作であり、こうした試みには適した内容であったので、サラウンドドラマの第1歩として,制作を行うこととした。

2.作品について
 本作品は,4月約2週間の制作期間を経て5月2日にFMで放送された1時間ドラマである。「遥かなる昔のことか、それともずっと未来のことなのか定かではない…」とナレーションで始まる時代を超越したドラマである。
穀物を持たない貧しい国の王子シュナがふと訪ずれた旅人に「西の国には金色の種が実る豊かな土地がある」と聞き、苦難の旅へと出発する。旅ではさまざまなアクシデントに遭遇し、ついには金色の種を手に入れるというストーリーである。

 原作は「風の谷のナウシカ」など数多くのアニメ映画を手がけているアニメーター宮崎駿氏によるものである。宮崎氏の作品を音の世界でイメージしてみると、ステレオ音場から飛び出し、まさしくサラウンドの世界が適していると思えてくる。

3.最近のラジオドラマの流れ
 ドラマによる音声表現の手法は、昭和初期からのモノラル制作、そしてFM開始後の昭和40年代には本格的なステレオによる新たな演出手法や表現開拓に向けて多くのスタッフが英知をかたむけ、イタリア賞を始めとする内外での評価を得るに至っている。そこで培われた多くのノウハウは、TV音声多重時代でのステレオ制作へと受け継がれている。
近年のディジタル技術の発達により、音楽の分野では制作過程に急激な変貌を呈し、PCM・MIDI・サンプリングなど多種多様の新技術の応用により、高品質なミュージックソフトを人々に送り出している。
 このようなディジタル技術を音楽分野だけでなく、ラジオドラマにも応用していこうと制作された、初のPCMマルチによるステレオドラマ「アディオス・ケンタウルス」(S.59年制作)、また次弾制作放送した「ビバ!スペースカレッジ」および「不思議の国のヒロコの不思議」などはPCM録音を駆使し、再放送、再々放送を行うなど、若い聴取者から大きな反響を得ている。
このようにラジオドラマの世界にも、ディジタル技術の応用による高品質化への波が押し寄せている。
では、現行のFM波の2ch音声でサラウンドを作り出すにはどのような方法があるだろうか。

4.マトリックス方式の採用
 現行のFM波においては2chの伝送系しかないため、ディスクリート方式は不可能で何らかのエンコード/デコードマトリックス方式を取り入れた制作を行うことになる。

 そこで、現在映画やビデオメディアで一定の評価を得ている“ドルビーサラウンド”マトリックス方式を利用することにした。
この方式の特徴は、通常のステレオ機器でそのまま伝送できる。また、機器(エンコーダ,デコーダ)が規格化されているので作品制作条件の統一性が得られる。それはミクサーが意図したとおりの音響効果を、聴取者がそのスペックを守りさえすれば,家庭においてもその効果を再現できる点にある。
この方式の概略を述べてみる。このマトリックスは、レベルと位相の組み合わせによって音像がどこに行くか決定をする。
例えば、左右の両方に同レベル・同位相の信号が存在するとすれば、マトリックスはセンターチャンネルに音を出力する。

 今回の制作で使用したマトリックスシステムは、ドルビー社“VE-3”である。
VE-3はエンコーダとデコーダで構成されている。L、R、C、Sチャンネルの信号をマトリックスエンコードC、Lt(レフトトータル)、Rt(ライトトータル)の二つの信号にチャンネル化する。同時にデコーダにより、Lt、Rt信号をデコードし、4チャンネル信号を出力する.また、モニター切り替えのリモートボックスがセットされており、モノ⇔ステレオ⇔サラウンドのモニター切り替えが可能である。

5.サランド制作を可能とした設備CD-809
 サラウンド制作をするためには、音場を作り出す再生SPと4ch出力を持ったコンソールが必要である。
 今年4月に開設したCD-809スタジオは、マルチ録音スタジオCR-506,音声中継車(A-1)などでディジタル録音された素材のトラックダウンや、衛星Bモードを始めとする高音質メディア番組の制作を可能とし、コンピュ-タミクシングやテープロックシステムなど多機能な設備を備えている。
コンソールは、60chの入力対応・出力バスに4ch or 8ch アウトプットを持ち、サラウンド制作を可能としている。
本番作成および素材のサラウンド加工は、このスタジオマトリックスシステムが持ち込まれた段階で行われた。

6.サラウンドミクシングのプランニング
 番組制作に参加したスタッフは、ステレオドラマは数多く経験しているが、サラウンドでの制作はほとんど始めてである。今までのステレオドラマのノウハウを踏み台とし、映画のサラウンド手法などを参考にし、各スタッフが検討を重ねた。
音だけの世界であり、当然ながら視覚からの影響は皆無である。つきつめればリスナーの360度すべて音像表現が可能である。しかし、今までのドラマの流れや人間の両耳の特性を考えて、以下の定位置を基本として制作にあたった。
 1)セリフ ⇒ 前方L,Rの範囲内
 2)心理的セリフ ⇒ 自在
 3)ナレーション ⇒ センターが適当と思われる
 4)音楽 ⇒ ステ、モノまたはサラウンド
 5)効果音 ⇒ 自在

 ステレオ制作でも常に音像をステージー杯に拡げたままだと、ドラマ全体の流れのなかで逆にステレオ効果が薄れてしまうように、サラウンドドラマにおいても常時サラウンド音場にすると印象が薄くなり効果が半減する危険がある。ドラマをよく検討し、サラウンド効果を狙うためには、ある部分はステレオで、またある部分はモノ的扱いをするなどの工夫が必要である。
 今回のサラウンドドラマを制作するにあたり、次の方法で行った。

(1)マトリックス“3chモード”での実施
 家庭ではSP間隔も狭く、虚音像センターでも十分であろうとの判断にたち、前方SPはL,Rの2個とし、マトリックス内のモニターモードを“3chモード”で行った。これは映画方式のLCRSのチャンネルのうち、Cチャンネルを入出力させずにLRSでサラウンド効果が出せるモードである。

(2)Lt,Rtの利用によるドラマ作り
 サラウンド素材は、LRSをエンドコードしたLt、Rtを各素材テープに納めた。これはLRCSをマルチの各トラックに仕込む映画方式とは異なった方法である。その理由として、ラジオドラマは映画やTVのように絶対時間が定まっている世界とは、作成のプロセスを異にするものだからである。

 ラジオドラマは、セリフ、音楽、効果音を別々に収録して、最後にそれぞれを別々に再生しながら、新しいドラマ的時間の流れをつくっていく手法である。演出家の各素材へのキュー出しのタイミングいかんによって時間の流れが変化する。各素材の微妙なからみ、ゼロコンマ何秒の世界が作品への息吹きに影響を与えるのである。
以上のようなラジオドラマの手法上、4ch録音機がない限り、Lt、Rtを収めた2ch再生機をキューにより順番に出してゆく方式をとった。 これは、エンコードされた素材テープが再度エンコードされるという経路を通過してしまう結果となるが、われわれが危具したほどの影響は感じられなかった。

7.ステレオ受信者とのコンパチビリティの確保
 聴取者の多くは、ステレオもしくはモノラル受信者と考えられる。マトリックス内のクロストークの変化を考え、作成時には、マトリックスシステムのモニター回路でバランスをチェックしながら、ステレオ受信者とサラウンド受信者間とのミクシング上のアンバランスが生じないよう留意した。
ステレオ会場とのコンバチビリティに関していえば、ステレオ試聴においても、あたかも後方にSPを配したようなサラウンド的効果を得ていた。ただモノラルの場合、音はフェードイン、フェードアウトすると感じにとどまってしまい、完全に狙いどおりの迫力を得るという訳にはいかない。また、後方のみに音を定位させることは、モノラルにおいてはほとんど音量感が得られないため、後方に定位させた音に時間差をつけ、前方にまわすなど工夫をこらせばある程度満足できる。

8.制作過程の実際
 ラジオドラマの制作の具体的作業を順に追ってあげると、打ち合わせと本読み、セリフ収録、音楽収録、効果音の録音と加工合成、そして最終的にこれらの素材を組み合わせて構成する本番作成という手順になる。

8-1 セリフ収録
 マイクアレンジメインはU-87×2、アンビエンスU-87×2、モノローグU-87×1である。ラジオドラマの場合、セリフはマイクとの距離感による表現が大切である。今回の場合、青少年を対象とした番組内容でもあり、メリハリを重視し過度なオンオフ処理は行わず、後処理の時にエフェクタ処理で行うことにした。サラウンド効果を狙う特別なセリフについては別に収録し、後日加工処理している。ナレーションは、スタジオ内の暗騒音を避け、しっかりと落ち着きのある音質を出すため、ドラムブースにて収音を行った。

8-2 音楽収録
 音楽は、シンセサイザ奏者“AKIRA”氏に依頼し、自宅にて録音されてきたテープ(PCM-F1)にサラウンド成分を付加するオーバーダブ作業を、CD-809にて24chマルチ(PCM-3324)を使い行った。
音楽は全27曲である。そのうち7曲をサラウンド効果をもたせた音楽とした。また2曲を意図的にモノラルとして再生した。プランニングで設計したとおり、ドラマ全体を通して聞くと非常に効果が現われていた。

8-3 効果音収録
 効果音としては、まだまだPCMでの素材が少なく、どうしても従来のアナログ素材に頼らざるを得ない。また、一つの素材がそのまま単純に使われることが少なく、加工合成という多くの工程をふむケースが多く、S/N、ダイナミックレンジ、位相ずれといった問題も生じてくる。このような問題を考慮し、加工合成時にはPCM-2ch(3102)を使用した。
効果音は,サラウンド表現をさまざまに演出してくれる。今回のドラマで音の迫力を一番に伝える効果音として、“月の登場”がある。効果を発揮させる最良の方法として、後方から前方への急激な音の移動を行っている。何種類かの素材音を24chマルチにオーバーダブをし、イコライジング、エコー処理、そしてコンピュートミックスまでを駆使し作りあげた。これは十分にサラウンド音場としての迫力を狙いどおり出すことができた。

8-4 総合作成(リミックス)
 各素材の完成テープができあがり、それらを持ちよって、いよいよ組み立ての作業に入る。各素材をここで初めてからませ、ドラマの全体像を明確にするため、通しテストを行う。そこでトータルのラップやキューのタイミング、音の整理などの手直しを行い全体の読みができたうえで、PCM-24chへの各素材の仕込み作業となる。
 使用機材は、PCM-2ch×4台、アナログ2ch×3台、マスター録音機PCM-24ch×1台である。

 セリフ、ナレーション、音楽、効果音A、B、C、Dと計6名がテープの再生オペレーションに携った。
ドラマの仕込み作業は、音楽の世界でいわれている「一発録り」的なマルチ使用である。担当者のノリが良い相乗効果を生み、音楽と同様、各作品への生命力を喚起するものである。
 マルチレコーダを使用した利点として、少々のNG個所は、その素材の部分的パンチイン処理で対処できたことにより、効率よく作業が進んだ。 仕込み作業の時点で、各素材のレベルコントロール、音像幅、エコー処理などを行った。それにより仕込み作業完了時には、ほぼ9割の完成度となっていた。リミックスの際には少しの調整で済みプログラムが完成した。

8-5 音楽,SE,セリフでのサラウンド例

8-5-1 音楽パートでのサラウンド制作例
 ここではテーマ曲と、村祭りでにぎわう村のシーンに流れるBGの2曲について述べる。
テーマ曲は、主人公シュナが動物に乗って旅をするイメージから、LRステレオの音楽に、軽快なパーカッションと鈴をサラウンド成分として、音場全体にまわしている。鈴の音を全体にグルグルまわそうとすると、クオッドバンポットを一定にまわしたのでは、そうした感じに聴こえず、ジョイスティックの動かし方にも訓練を必要としそうである。
テーマのイントロが終わると、低域成分がアクセントとして出てくる。この音のみを長さに合わせて、Sから前方へとばしている。この音のリバーブ成分は前方とリア分2台のリバーブを用いて、スムーズな移動感とコンパチピリティを確保するのに利用した。
村祭りのBGMは、祭りのにぎやかさと楽しさが出ればよいと考え、LRCに各パーカッションを定位させ、アクセントとなる鳴物系の音を、ジョイスティックで自在に動かしてみた。

8-5-2 SEでのサラウンド例
 巨人の国ヘシュナが向うとその入口で巨大な音をたて、月が登ってはるかかなたへ消えていく。この音は、シーンの変わり目のブリッジの役目もしており、ダイナミックな音創りとともに、リアから前方へあざとく動かしてある。ステレオ制作での動きとよく似ていると感じたのは、音が出て、すぐ前方へ移動させると聞いていて音が、頭上位からしか動いた感じに聴こえなくなることである。そのために、リアで音が出ると数秒間そのままにしておき、やおら前へふっていくと後から前へとんだように聴こえる。これなどは、ステレオ制作での応用が活きた例といえる。

<シュナが人喰いの館でとらわれるシーン>
 旅を続けるシュナが、ある夕方人喰いの国へ迷いこんでしまう。暗闇の中を進んで行くと突然四方からナワがとんできて、シュナをからめてしまう。闇の中では、人喰いオババ達の不気味な笑い声が響く。
 この場面では、ロープのとぶ音をひとつひとつL→R,R→LへL→リアヘR→リアヘ,リアからL,Rへと、音を積み重ね、シュナを中心に、四方からナワがとんでくるイメージにした。また、不気味な笑いもLRS全体に原音を振り分け、さらに2系統のリバーブで、サラウンド音場を表現した。
 
8-5-3 セリフでのサラウンド例
 セリフは、基本的にモノラルとステレオで録音したが、シュナがオババの言葉を回想するシーンでは、そのことばをリアからも出し,全体音場の中で天上から響いてくるようなイメージにした。
モノラルでもステレオにおいても回想や過去のセリフにエコー処理を行うが、こうしたサラウンドの回想シーンもよりイメージが広がり効果的であったように思う。


今作品での体験
 音楽や効果音素材で予期せぬサラウンド効果が現れるケースがたびたびあったり、また逆に狙い目としてサラウンド効果を作り出すために多くの時間を要したこともあった。まだ始まったばかりである。今作品の経験が「サラウンドへの旅」の第一歩と位置づけ、この経験を糧とし、今後のサラウンド音場の表現方法を開拓すべく努力してゆきたい。
以下、この経験での所感を述べさせていただく。

○サラウンド制作での打ち合わせについて
 特に、サラウンドを意識した作品づくりには、綿密な音場設定が必要となり、そのためには台本を作る段階からある程度の認識を作家に与え、ドラマの展開とサラウンド音場とを相乗させ、迫力あるドラマづくりを目指してゆく必要がある。このことは効果音と密接な関係をもっている音楽にも当然いえることであり、今まで以上に、作家(脚色家)、作曲家、演出、技術、効果各スタッフがそれぞれの立場から意見を出し合う場としての打ちあわせが必要となってくる。

○システムについて
 サラウンド制作するにあたり、現状ではモニターレベルのチェックの実施、サラウンド用SPの設置など事前の準備に実作業の時間の多くをさく結果となった。今後サラウンド対応として設備の常設を望みたい。

○ドラマのコンピュートミクシングについて
 作成で使用したCD-809は、コンピュートミクシングが可能である。今作品もこのシステムを積極的に導入し、各素材のサラウンド収録などを行って成果が出ている。しかしドラマのミクシングは全体の流れの中ミクサーの感性によりその場その場でのミクシング判断がなされるという感覚の世界である。
こうした音楽のコンピュートミクシングとは、また観点の異なったソフトウェアの開発も、ドラマミクシングのコンピュートアシストに課された課題といえる。そのためには、どういった方法がよいのか、我々ドラマミクサーが、ソフトウェアを用いる立場から、積極的にデータを蓄積しておかねばならない。

○ラジオドラマ専用化スタジオへむけて
 ヨーロッバのラジオドラマスタジオの多くは、セット型式でできており、さまざまの場面設定があらかじめつくられているという、われわれもこれからのドラマ収音方法として、現在音楽録音用のマルチブース化スタジオCR-506に準じた考え方のドラマスタジオを検討したい。(注:我々のこの思いは、12年後の1998年CR-602スタジオの完成で実現)

あとがき
 番組放送後、多くの投書が寄せられてきた。サラウンドシステムを使って聴かれた人はまだまだ少ないようであった。サラウンドをシステムではなく「迫力ある音」というムードで楽しんだ人が多いようである。
ひとつには今回のサラウンドミクシングが。ステレオ受信者とのコンパチビリティの確保という点で十分に満足されていたからといえる。また、PCM録音による威力の発揮ではないかと思う。「PCM制作による音楽以外の番組をもっと増やして欲しい」、「CD化を望む」などの高品質な番組への要望が若い人たちから数多く届いている。新しい分野としての“サラウンド”はこれからである。我々ミクサーもサラウンドについて検証を重ね、BSからサラウンド制作の番組が送出され、リスナーの方々に楽しんでもらえる日まで精進してゆくつもりである。

執筆者 
鈴木清人(すずき きよと)
沢口真生(さわぐち まさき)
若林政人(わかばやし まさと)

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April 1, 2002

大きなイベントはHD-TVと5.1chサラウンドで 2002冬季オリンピック サラウンド NBC

By Jim Starzynski(NBC 音声統括エンジニア)02-APRIL 抄訳:Mick Sawaguchi 沢口真生

私は2002年冬季オリンピック ソルトレークシティでのHD-TV 5.1CHサラウンド音声制作を担当出来たことを光栄に思っています。これまでに私がNBCで手がけたサラウンド制作は、サタデーナイトLIVE等でしたがこれだけ大規模なイベントでサラウンド制作を担当できたことに興奮しています。
勿論実現のためには多くの優れた人材の集結とそれを世界へ放送しようとする熱意、加えてサラウンドでの楽しみが総合された結果でもありました。
エンジニアとしてまたこのPROJの責任者としてこのソルトレークで味わったような新技術と制作された結果のすばらしさがうまく融合した例は私自身あまり経験がありません。放送人に心からオメデトウといいたい気持ちです。
HD-TVによる生放送は家庭の視聴者と我々プロにかつて無いほどの興奮と迫力をもたらしました。これが簡便に実現するのであれば私はどのTV番組も映像はHD で、音声は5.1CHで制作したい気持ちでいっぱいです。

アメリカのD-TVは、1996年から公式には開始されました。この規格のなかには、マルチチャンネル サラウンドでの音声放送が含まれています。しかしどうしてHD-TVやサラウンド音声での制作が活発にならないのでしょうか?
アメリカの統計では、現在Dolby Digital対応の受信機は1200万台市場に出荷され5300万台のDVDプレーヤが普及しています。映画ソフトはこうした家庭向けのパッケージに熱心で5.1CHというロゴマークをセールスポイントにしています。

TV業界は映画チャンネルやスポーツチャンネル、ネットワーク局 衛星局そしてCATVと複雑な混成構造で成り立っています。流れる信号はNTSC-アナログが主流でHD-TV+5.1CHはこの基盤にさらに追加をしていく技術として放送経営にとっては2重化投資をためらう傾向が見られます。5.1CHの音声を扱うとなると既存の音声設備では対応不可能で、加えて経営者やビデオエンジニアの勉強不足から設備の整合性がとれていないという現実もあります。

ではどうすればいいのでしょうか?
我々プロは最小限のコストで最大の効果が発揮できる解決策を見いだして行かねばなりません。特にD-TVの立ち上げ初期にあたる現在ではこの視点が大切です。デジタル放送送信技術者にたいする教育と啓蒙が最優先課題でしょう。

圧縮されたデジタル音声はどう扱うのがトラブルの防止になるのか?
ビットレートとは?5.1CHトラック配置は?レイテンシーや同期は?
リップシンクがずれていた場合にどこを調整すれば解決するのか?
台詞ノーマリゼーションの仕組みは?デジタル基準信号とは?・・・

勉強しなければならないことがたくさん目の前にあります。プロならばこれらを理解する努力を怠ってはなりません。
音声の場合はどうでしょうか?ステレオ音声からマトリックスサラウンドを経験したエンジニアはD-TVにスムースに取り組むことができます。ここで得たエンコーディングや5チャンネルでのモニタリングといったノウハウが5.1CH D-TVに反映されるからです。マネージャーの立場にある人は、スタッフがこうした新しい技術や機器を習得するための円滑なサポート体制を確立しなくてはなりません。新しい送信機に灯がいれられてもすぐに順調な運用が行えるとは限りません。これは特に音声信号の扱いの部分でおきやすいでしょう。
しばらくは性急さを求めず息永くサポートしなければなりません。
キー局と映画産業は優れたソフトを考え、業界は協力して機器の普及と価格の低廉化を進めなくてはなりません。放送とイベント関係者も協力してマルチユース可能な機会を提供することで5.1CHサラウンド音声制作が容易になりこれにより視聴者がさらに5.1CHサラウンドの魅力に触れる機会が増えCMもデジタルへの移行を加速します。まさに鶏か卵か?を具体的に進めることになります。願わくば本稿をお読みになって何らかのヒントが得られれば皆さんの手近な所から映像はHDで、音声は5.1CHサラウンドで制作されることを願っています。(了)

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