サッカーワールドカップ2002の5.1チャンネル音響はいかにして創られたか
By Mick Sawaguchi 沢口真生
インタビュー:NHK中継チーム
(中継制作) 副部長 綿引 澄男さん
(中継制作) 居石 浩己さん
(中継制作) 稲田 一俊さん
6月30日、世界中が注目するFIFAワールドカップ2002の決勝戦をAAC5.1chで観戦しました。
残念ながら開催期間中会場には足を運べなかった私には、生の音声と比較することはできなかったのですが、その音響はおそらく会場の迫力を伝えるのに充分だったはずです。なぜならアナウンサーや解説者のコメントはセンタースピーカーによって明瞭に聞き取ることができ、しかもピッチ上での繰り広げられる様々な技から発せられる音、そして7万人収容したスタジアムがうなりをあげて一喜一憂する様が、そのほかの左右と後方左右からその場にいるように思えるほどの臨場感で伝わって来ました。よく表現される「スタジアムが揺れている」とはこのことかと、納得してしまうほどの重低音がサブウーハーから再現されて、その音響に身を置くこちらも興奮とともに揺れていました。まさに放送音響における新しいステージが訪れたと思わずにはいられません。
決勝戦の会場である横浜スタジアムには中継用の駐車場に仮設のスタジオが用意されました。もちろんモニターシステムは5.1チャンネルです。中継現場の音響を担当されたのが、居石さんです。
「視聴者がロイヤルボックスに居るようにサウンドデザインしました。コメントはセンターに定位、スタジアム全体が視聴者を取り囲むようになっています。」
実際、居石さんのデザインした音響はスタジアムの歓声が視聴者を取り囲む様に配置され、ピッチに近いほぼセンターライン当たりに居るように聞こえました。スタジアムのうなりを再現したLFEについては。
「実際の運用は決勝トーナメントからで、専用のマイクをピッチ側に立てて音を拾いました。重低音の採用は効果的だったと思います。全てのチャンネル言えることですが、スタジアムによって音響特性が違うのでフィルターやエフェクター等で効果的にしました。」
毎回変わる会場の音響特性には苦労されたようで、中継を指揮された綿引さんは
「主催者からのマイクやカメラ位置に制限があったり、多の放送グループとの共有があったり、5.1以外のことも考えて設置しなくてはなりませんし、そもそもスタジアムの建築構造の違いや当日の観客の入り具合で変わる音響に苦労しました。しかもリハーサルありませんから常にぶっつけ本番ということです。」
様々な条件をクリアして収録は行われました。
居石さんは付け加えて
「基本的には全て5.1チャンネル放送時のマイキングは同じです。この図には無い音源として主催者サイドで用意されるピッチ上でのモノラル音声があります。このピッチ上のサウンドはセンターに定位するようにデザインしました。」
「現場でそのスタジアムに最良なマイクポジションを探し出すのは多くの制約や時間的問題から困難です。たとえばグランドにはカメラマンしか入ることが出来ません。従ってグランド内のマイクは会場がからの時に設置し回線チェックを行うのみで、試合中のマイク位置修正等は出来ませんでした。」と綿引さん。
「いざ本番になって客席マイク近くに大声のお客さんがいらっしゃる等、いろいろと苦労はありました。」4年に1度のワールドカップならではといえる想像を超える音量を巧みにコントロールした居石さんの手(耳)によって創られた5.1チャンネルサウンドは横浜から東京渋谷のNHK放送センターに送られました。このスタジアムと放送センターを結ぶために使用されたのが“Dolby E"という音声圧縮技術です。
<実際の中継現場のDolby Eの写真>
横浜からの音声はAES/EBUを3本使い3つの音声が東京に送られました。5.1チャンネルをミックスしたステレオ2チャンネルがコメントの有無で2種類と、5.1チャンネル音声です。通常5.1チャンネルをAES/EBUで送るだけで6チャンネル分つまり3本のAES/EBUを使用してしまうのですが、Dolby Eを使用すると1本のAES/EBU以外必要ありません。もちろんNHKさんとしては回線チャンネルの制限がなければ非圧縮の状態で中継したかったとのことです。しかし多くの中継で5.1チャンネルの伝送に非圧縮を用いることは現実的ではありません。そこでNHKさんでは事前にいくつかの圧縮伝送方式を評価しDolby Eを採用して頂きました。
その理由として音質変化の少ないこととサポートの得やすさだったそうです。
そのほかにもDolby Eには採用していただけるよう工夫されたビデオ信号との調相可能という特徴があります。
渋谷のNHKに到着した横浜スタジアムからの中継信号は映像と音声に分けられます。Dolby Eで圧縮された5.1チャンネル音声はデコードされ音声ミキサーに入力されます。
NHKの渋谷で音響を担当されたのが稲田さんです。
「横浜の中継現場にもVTRはありますがバックアップ用で、放送中のプレイバック用には渋谷のVTRを使用します。特にハーフタイムのVTRと渋谷スタジオのコメント、横浜からの5.1チャンネルをミックスため工夫が必要でした。設備的には横浜と渋谷のリファレンス(シンク)が異なるためDolby Eの信号をそのままVTRに記録することが出来ませんでしたので、ミキサーの2チャンネル出力をプレイバックには使用しました。」
残念ながらDolbyにはDolby E信号のためのフレームシンクロナイザーDP583があるのですが、機材の手配が出来ませんでした。これが用意できればAES/EBUでデジタル音声記録可能なVTRやATRにもDolby Eを収録し再生や編集もできたのですが 申し訳ありません。
「でもこれは効果的でもありました。」と居石さんにフォローして頂きました。
「試合中の実況は5.1チャンネルで放送し、ハーフタイムのスタジオからの放送が2チャンネルだったことで、後半に横浜に切り替わったときより5.1チャンネルが効果的になりました。生放送にふさわしく現場に帰ってきたことが伝えられたと思います。」
おっしゃる通りです。当日TV観戦していた私の緊張も横浜に中継が戻ったと同時に前半終了時点のテンションまで一気に駆け上がって行きました。
これまでもハイビジョン3-1音声など立体音響に携わってこられた居石さんは5.1チャンネル放送について
「全ての作品が5.1チャンネルで効果的とは思いませんが、音楽等のステージやインドアスポーツは臨場感の再現を、モータースポーツなどスピード感が演出できるものは前後左右のパンニングでエフェクト中心のサウンドデザインが面白いと思います。こうした作品を5.1で放送していきたいと思います。」
NHKの綿引さん居石さん稲田さん、有難うございました。これからの5.1チャンネル音響制作に期待しています。デジタルハイビジョン放送で5.1チャンネルを伝送するためにはAACという技術が使われています。(了)
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