テーマ:サラウンド87年からの取り組み
講師:Mick Sawaguchi 沢口真生
沢口:1985年位からサラウンドに取り組んでいますが、ちょうど2003年12月に愛宕山の放送博物館でTV放送50周年記念として放送のサラウンドの歴史について話す機会がありましたので、それを要約して今回はお話します。サラウンドというと特に5.1chサラウンドから入った人が多いので、その前にどういう道のりがあったのかを踏まえて話していきます。
サラウンドの歩み
1 最初80年代にアナログ方式でマトリックスをかけたもの。放送のところで言うドルビーサラウンドと言う方式からスタートしました。これは、LchとRch/Cch/モノのSchという4チャンネル出力をエンコーダーを通してLt/Rtの2チャンネルにして記録伝送し、受信側はそれをドルビーデコーダーで4チャンネルに戻して再生すという方法です。
2 90年代ではハイビジョンの実験放送が始まりLとRとCとモノのSという4チャンネルディスクリート方式が開始。これは、マトリックスではなくそれぞれ独立した4チャンネルが放送できます。
3 2000年代に入りますと3-1方式の4チャンネルでなく後ろもステレオになった3-2方式になりました。ここでようやく我々が表現できる場になったかなと(3-1のときはちょっときつかったかなという)。
4 5.1CH方式、この3-2方式にLFEと呼ばれる重低音専用のチャンネル(これは、0.1CH分に相当)がくっついてきまして現在言われる5.1チャンネルサラウンドとなったわけです。 じゃあ、その次があるのかということで映画界や次世代放送といったところでは、どうやって5.1チャンネルと差別化しようかという取り組みが始まったところです。
制作スタジオの構築
サラウンドを作ろうぜと、それにはまず場所が必要だということで。96年から工事に入りまして97年に完成。たいへん歴史に残るCD-809というサラウンド対応のポストプロダクションスタジオが完成しました。これはたぶん放送業界では始めてサラウンドに対応したポストプロダクション。その第一作が、後で聞いていただきますが、宮崎駿さん原作の「シュナの旅(アドベンチャーシュナ)」初めてのドルビーサラウンド。この後、NHKだけでなく、特に関西の毎日放送、関西テレビ、読売、朝日放送と言った、関西のテレビ局が88、89から2000年くらいまで大変精力的に色んなドルビーサラウンドで制作をしました。この努力は東京キー局に比べすごいエネルギーだったなと、今でも私は感じます。ようやく、そのエネルギーが2004年くらいから関西でも戻って次世代の若い人たちがまたもう一度動き始めたことは大変うれしいことです。
90年代に入りますとハイビジョンのアナログの実験放送が始まりまして、ミューズという方式なんですが、それで、じゃあハイビンジョン大画面にふさわしいダビングステージを作ろうぜと、渋谷に初めての3-2対応のサラウンドができるダビングステージが完成。これが92年。ハイビジョン大画面とサラウンドができるようになったことで放送と映画の垣根が低くなったことになります。ここらへんまでやって我々が分かったのはサラウンドに適したコントロールルームの音響設計がどうもないなあと言うこと。そこで日本の色んな分野の人が約50人くらい集まり、ハイビジョンのMSSG(マルチチャンネルサウンドスタディグループ)サラウンドにふさわしい小規模スタジオと中規模スタジオ、の音響設計ガイドラインを作ろうと92年から95年まで色んな調査、実験をやりました。これは放送文化基金から助成をいただいて座長は神奈川工科大学の吉川先生事務局は我々が担当しました。ここでの調査研究は今日に大変生かされている感じがします。
90年の後半になると3-2で音楽を作っていこうというエンジニアが登場しその代表例が、スーパーコンサートです。これが深田さんの「深田ツリー」を開発する元になった記念すべき番組です。業界関係では日本オーディオ協会が次世代のオーディオを研究しようとアドバンスドデジタルオーディオ研究会が発足し主にオーディオメーカー主導の研究会が発足しました。 96年から98年くらいまで色んな調査研究をしたんですけれども。その中のひとつにマルチチャンネルワーキンググループというのがありまして。当時、私と今ドイツにいっている高橋さんが、主査と副主査で音楽業界のマルチチャンネルサラウンドを、今後どうやって進めていくか調査研究しました。
2000年になりますと、いよいよ2000年の12月に衛星のデジタル放送BS-DがAACという方式で始まりました。放送メディアが本格的にいろんなサラウンド放送が可能となったわけです。2000年にはAESという世界的な団体でも第一回目のサラウンドだけにテーマを絞ったコンファレンスをドイツで行われました。2003年の12月、地上波デジタル開始。一方10月にはデジタルラジオ。2000年以降、結構デジタルのメリットを生かしたサラウンドの制作もこれで弾みがつくんじゃないかなという手応えがあります。
各サラウンド方式のメリット・デメリット
今お話したアナログのマトリックス・ディスクリート3-1・そして現在の5.1チャンネルという三つの流れの中でそれぞれどんな特長があったのかということを述べておきます。まずは、アナログマトリックス。どうしても、4.2.4という、エンコード、デコードがありますので、レベルのチェックをシビアにしないと音がめちゃくちゃになると。つまり、調整がちょっと大変でしたね。だいたいミックスが始まる午前中はこのセットアップで時間が費やされる・・・ 。もうひとつは、エンコード、デコードするときに、このドルビーの方式はサラウンドの成分っていうのは逆相にして入れるんですね。ですからもともとその成分が入ってますとエンコード・デコードは勝手にサラウンドだと機械のほうが判断してしまいます。我々がこの音はサラウンドに入れたくないなと言うような音でも、逆相成分が入っている音だとサラウンドにいっちゃうんですよ。ま、コントロールができない方式だというので業界では「マジックサラウンド」といってましたけれども。僕たちがこの音はセンターだけにしたいんだと思っても逆相の成分が入っているとバーと広がってしまう。で、非常にピンポイント的に音を作っていくには、この手順ではたいへん難しい課題のひとつでした。それからどうしてもエンコードデコードというプロセスが入りますので、(四つの出力を無理矢理二つに押し込んでまた四つに戻すという理屈なんだけど)、やっぱり理屈通りには行かない。クロストークが各チャンネルに出てくる、そのためにそれを見かけ上抑えるためにプロロジックという一種のいわゆるゲートのようなのが入っていまして。一番レベルの大きいところ意外は抑えちゃうというようなロジック回路。そういうのが入っていると音がこうちゃんとデザインしてあげないと音がばたばたしてしまう。いわば音場が出る音によって不安定になってしまうわけです。このアナログのときの大きな悩み。それをどうやってコントロールしていくかは当時の大きなノウハウでした。ここら辺一番よくノウハウを使っていたのはさすがにこのドルビーサラウンドの歴史の長いハリウッドでしたね。たとえばLRの音場を狭めるとあまりばたつかないとかですね。LとRに広げるときに、30から50ミリくらいのディレイを入れると、ロジック回路がきかなくなるので、広がった音になるとか。そうやっていかにロジック回路の機能を殺すかと言うノウハウを色んなところに身につけてきましたね。だから本当は余計な回路だったかもしれませんね(笑) ま、こういうところがあの特徴だったんですね。
続いて90年代の独立した3-1サラウンド。寿命は短かったんですけれども。これはなんといってもリアがモノラルと言うことで、ま映画館みたいに広くてモノラルだけど分散配置で一見擬似的に広がっている状況だといいんですけれども。スタジオとかここくらいの広さでリアがモノですとどうしても広がった感じがしない。違和感を感じるわけです。特に音楽ライブの放送とかハイビジョンの実験放送でやっていた場合拍手がモノだと上に上がって聴こえるんですよ。ぴゅーとこのへんに上に上がって、演奏が終わると拍手がくるじゃないですか、そうすると拍手が天井に固まって聴こえるんですよ。これは音楽の連中たちは嫌だなーってね。何とかならないかっていってましたね。これはやっぱり後ろをステレオにするのがいいよねと。ドラマでは意外とそんなに変じゃないなと言う感じだったんですけれども。音楽ですね。それでサラウンドはいやだよって当時いった人も結構いたんですね。それは今言ったライブの拍手。
それで今日の一般的な3-2と5.1チャンネルサラウンドです。ここも初期の課題はモニターレベルをどのくらいならいいのかって言うところが一番の悩みでした。ま、映画の業界はその基準を85dbと規定していました。放送では、ドラマもスポーツも音楽もいろんなことがあるときにコントロールの最適モニターレベルをどのくらいにしていいのって言うのはかなり手探りの状態で最初は85でみんなやったんですけれども部屋中馬鹿でか音になって、こりゃだめだってことになって、何とかいいレベルはないかって。LFEも映画の業界はフルバンドでメインチャンネルより4dBくらい高めがいいよって言われているんだけど。本当に放送の色んなジャンル、それから音楽もそうだと思うんだけど、それでいいのかっていう、我々も実験中です。それから5.1チャンネルでやったミックスをステレオでも違和感なく聴いていただくために、どういうダウンミックスがいいのか、これもようやく一定の結論ができました。 今後のところで言うとサラウンドに対応したエフェクターが充実してくれるといいなって。
以上が大きな三つの流れとそれぞれの特徴ということです。
写真でみる歴史
先ほどお話をした80年代半ばからの取り組みを写真で見るとどうかと言うのを味わっていただきたい。まあ、放送の立場で言うと80年半ばは実験の時代ですね。バラックセットで色んな試行をやった。86年くらいから809というポストプロダクションのスタジオができましたので、ここでスタジオ制作ができるようになりフォーマットはアナログのドルビーマトリックスでやっていたというわけです。これは記念すべき85年の。これはまだステレオのポストプロダクションなんですけれども、CD-807と言う、ここでハイビジョンの「秋・京都」と言う番組をサラウンドで取り組みました。当時ハイビジョンVTRは音声トラックが2チャンしかないんですよ。でもサラウンドでやりたいと。じゃあドルビーサラウンドでやろうよ。と言うことになりまして。見てお分かりのとおりBOSEの101と言う小さいスピーカーが後ろに四本くらい立っていますよね。こうやってまったくの仮設でやった時代です。 これは札幌でやっていたドルビーサラウンドの収録風景。これはスタジオの中にコンソールから再生機まであらゆる物を仮設に組み上げてやっていたと言う。熱意がないと誰もやらないですね。これは組み上げるだけで2,3日はかかりますね。大変な努力です。
これは記念すべき86年からのCD-809と言うスタジオに導入した国産で始めての3-1対応48トラックの大型の新コンソールをタムラ製作所で完成したときのスタッフ一同記念すべき写真です。当時85年にポスプロを作ろうと我々はサラウンド対応のポスプロを作らせてくださいと言う企画書を出したのですが、上層部は放送にサラウンドとは何を考えているんだと我々はステレオで十分だと言われ、その説得に約一年半。ようやくじゃあやってみてもいいぞとなって、じゃあ卓はどうしようかと。実は卓がないんですね。NEVE社にオファーしてこう言う仕様でやってくれないかと交渉したら我が社はステレオに対応したコンソールで十分だからそんなのに取り合う暇がないと言われましてね。じゃあタムラとやるかと。ぼくは今でもNEVEの連中に会うと当時の話をすると、いやあごめんごめん当時は俺たちの読みが浅かった4チャンネルでの失敗にこりていたからと言いますよ。
さっき言ったドルビーのエンコーダデコーダがこの写真です。この下にあるエンコーダーが初期のタイプでVE-3。この上にあるのがデコーダで、エンコーダーとペアになっていてこれが入力ですね。4つ入力。LRCS。エンコードしてこれがアウト。これがLトータルRトータルの2チャンネル出力となるわけです。音声トラックが2チャンネルある機材であれば、3-1のサラウンドができる。さきほどマルチチャンネルMSSD研究会のところで、サラウンド対応の音響設計指針を出しましょうというきっかけになったのはこの写真を見てお分かりのように809と言うサラウンド対応のスタジオを作ったんですけれども、当時の音響設ではステレオの音響設計の概念は分かっていたんですけれども、サラウンドになるとステレオの音響設計と何が違うんだと言うのがよく分からなかったんですね。と、言うことでこのスタジオは、この前面が堅いアピトン合板でできているんですよ。言ってみれば全面硬い壁ですよね。それでリアにサラウンドのスピーカーがいっぱいくっついているんです。「シュナの旅」とかサラウンドの制作を始めたら、リアの音がばんばん反射してですね、ちょうどミキサー席で全部がぐちゃぐちゃに混じって、何の音を聴いているか分かんないやってなってね。サラウンドになったらデザインももう一度やり直しをしないといけないと実感したわけです。その後翌年にCD-604と言うサラウンド対応のミックスダウンのスタジオを作ったんですけれども、この時にはですね、前年の反省を踏まえて、フロントの材質は、これみんなフカフカなんですよ。 後ろがみんなフカフカで、ほとんど全面吸音と言うタイプ。後ろはまだ3-1だったんで、後ろについては木のブロックを埋め込んで見かけ上拡散という形。どうやればいいかをなんとなくつかんだのがこのスタジオですね。
これは中継でドルビーサラウンドで大相撲を放送した時の国技館。大相撲は伝統的にファンタムセンターで。まあセッティングが楽だっていうのもあったんでしょうね。マイキングには大変入念な調査をして決めたと担当のミキサーは言っていました。これは当時聴いていても非常に繋がりがよかったですね。後ろがモノなんですけれども、非常につながりのいいアンビエンスがあって私も感心しました。
これは92年ハイビジョン専用のサラウンド音声ポストプロダクションスタジオです。ハイビジョン大画面をやりながら、なおかつ3-2のサラウンドをやろうと言う。これも上層部に「何で放送屋がこんな映画館みたいにするんだ」とけんけんがくがくに言われ、「いやぁもう勉強のために絶対いるんですよ」といって作ったのがこのスタジオで。このスクリーンが160インチでスチュアートと共同開発した音響透過スクリーンです。これが非常に高域のロスが少ない音響効果型のスクリーンで現在映画界でも使われています。ここに導入したのは、AMS社のロジック2フルデジタル。ロジック2は今までポータブルの小型のしか作ったことがなくて、こんな大型の馬鹿でかいのなんて初めてだったんですね。大型のダビングステージ用のをここではじめて入れてここで何年と言う長い間、われわれが毎日悲惨なバグを出して、その結果いまハリウッドのコンソールのバグはここでほとんど出している。我々がこうやったらいいよと言う色んなノウハウを言ってDFCというコンソールに反映されています。だからハリウッドはわれわれにかりがある(笑)。
93年にはこの勢いで807スタジオをサラウンド化しました。一番最初にスナップで出た「秋、京都」を制作していたスタジオがこういうモダンなスタジオに生まれ変わった。
95年に今度はクラシックのオーケストラ録音スタジオCR-509がサラウンド更新しました。初めて音楽の3-2のサラウンドを完成した。ここは深田さんが作った第一号スタジオです。98年にはラジオドラマのミックスダウンスタジオがサラウンド更新しました。ここはフェアライト3式をネットワークで結ぶという非常にコンパクトですけれども、よいミックスダウン環境です。ここで初めて音響的にはなんとか気に入った音になったなあ、僕も思い入れが深いスタジオです。音を聴いたとき非常にナチュラル。モニタ-スピーカーの背後ろのほうも贅沢なくらいゆとりを持ちましたので、非常にまとまりがよくなっている。これは深田ちゃんの二作目のスタジオでCR-506です。これが98年。卓は同じAMEK 9600このときから通常のマルチトラックのレコーディングコンソールのように、録音用とモニター用がインラインで入ってきている。残念ながら今は製造中止になっている。
これも記念すべきスナップで2003年完成のNHKホールコントロールルームです。NHKホールで長年サラウンドの放送をやってきたんだけれども、え、こんなところで大丈夫だったのというかなり俗悪な環境でサラウンドはここから放送されていたんです。それまで本当にこんなバラックでやってたんですね。これが三年計画で新装されたのですね。二卓構成でここはSSLのピュアアナログコンソールを入れている。ここは深田さんの執念ですけれども。彼曰く、今後のデジタルのフォーマットはどうなるか分からんと言うことで何が来てもいいように卓はピュアアナログにしておこうというふうに。
同じく一番最初に出ました86年にはじめて作ったサラウンド用のダビングスタジオCD-809ですけれども。ここも長い歴史が2003年の11月に改装になりました。スウェーデン放送協会の中継車。敵は何でもでかい。この一番後ろぐらいがミキシングのエリアになっていまして、その中にこんな風にちゃんとなってまして。こういうところはすばらしいですね。
これはドイツバイエルン放送協会それからWDRでここのラジオドラマを作るサラウンド対応スタジオです。ここはカンタスというデジタルコンソール、こちらはスチューダ950-D。WDRは、今年の9月くらいからサラウンドの番組を放送する体制が整っている。ここの仕掛けで面白いのですはね、あの2チャンのスピーカーとサラウンドでやるスピーカが別々に設置されていまして、ボタンひとつでビーっと下がって入れ替わる仕掛けがあるんです。
まあそういうわけで歴史をざっとやりましたけど。 次に歴史の流れに沿っていくつか音を聞いてみましょう
最後に今の課題をいくつか・・・
1 大画面になった場合の映像と音声のリップシンクの検討
2 LFEはいつもいるか?
2 POPSのサラウンドに挑戦-ここが発展のキ-ポイントだと思ってます
どうもありがとうございました!(了)
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「サラウンド入門」は実践的な解説書です
Mick Sawguchi & 塾生が作る サラウンドクリエータのための最新制作勉強会です
http://surroundterakoya.blogspot.com
December 30, 2003
November 1, 2003
第4回サラウンド塾 ラジオドラマサラウンド 糸林薫
By 糸林薫 (NHK放送技術局 制作技術センター ドラマ番組技術 音響制作)
2003年11月1日(土)、沢口真生氏自宅スタジオにおいて、第4回サラウンド寺子屋が開催された。ここで「Surround Sound for a Radio Drama」と題して講義を行ったので、以下にその概要を記したい。
はじめに
2003年10月10日から13日にかけて、米国ニューヨークで第115回AESコンベンションが開催された。このコンベンションには多くのセミナーやワークショップが開かれており、その中の「チュートリアル・セミナー」にパネリストとして参加した。 その時に講演した内容を日本語に置き換え、熱心にサラウンドを学ぶ寺子屋塾生に発表することで、サラウンドについて再検討した。
概要
NHKでは1980年代よりサラウンドのオーディオドラマを制作しており、ドラマにおけるサラウンド制作のノウハウを蓄積してきた。それらを体系的にまとめ、次の4つの視点から講義を進めた。 1.ラジオドラマの利点 2.成功への鍵 3.制作手順 4.結論
1. ラジオドラマの利点
視覚情報がない分、視聴者の想像力を最大に引き出せる。
サラウンドで制作することで、「リアリティー・感情・エネルギー・空間」をより強調することができる。
サラウンド番組では「モノラル・ステレオ・サラウンド」をうまく組み合わせることが重要になる。
今までのモノラルやステレオでの番組制作の経験がサラウンド番組制作に応用できる。
2. 成功への鍵
サラウンドで番組制作するために上司を説得しよう。
サラウンドをミックスするためのチャンスを作ろう。
サラウンドミックス経験者に相談して、彼らの忠告を聞こう。
世界の専門家と情報のやり取りをし、それを通じてノウハウをシェアしよう。
3. 制作手順
ラジオドラマにおける制作手順は次の通り。
セリフ収録
セリフ編集
生音収録/フィールドレコーディング
SE
音楽録音
プリミックス
ファイナルミックス
・ セリフ収録におけるマイクアレンジをいくつか紹介した。
・ サラウンドの音楽録音でのマイク配置をいくつか紹介した。
・ サラウンドでのSE制作の基本となるパターンを説明した。
・ 実際にサラウンドで制作したラジオドラマを視聴した。
2003年5月3日に放送された特集オーディオドラマ「怪し野」の一部を20分間上演。
4. 結論
サラウンド音声は我々にとって魅力ある音声表現である。
サラウンド制作のノウハウを皆と共有することが重要である。
サラウンド制作のチャンスを作り出し、それを逃さない。
ゆっくり着実に前進あるのみ。
最後に
米国AESでのチュートリアル・セミナーでは、SEの作り方について質問が集中した。また日本のラジオ事情についても、いくつかの質問を受けた。一方で、サラウンド寺子屋の塾生の関心は、サラウンド音楽録音に集まり、それについての質問が多かった。 サラウンドの興味の広がりを日本にも定着させるため、情報交換の場や、雑誌などの媒体が必要である。その意味でも、サラウンド寺子屋の存在意義は大変高いものがあり、今後もその活動を支えてゆきたい。
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「サラウンド入門」は実践的な解説書です
2003年11月1日(土)、沢口真生氏自宅スタジオにおいて、第4回サラウンド寺子屋が開催された。ここで「Surround Sound for a Radio Drama」と題して講義を行ったので、以下にその概要を記したい。
はじめに
2003年10月10日から13日にかけて、米国ニューヨークで第115回AESコンベンションが開催された。このコンベンションには多くのセミナーやワークショップが開かれており、その中の「チュートリアル・セミナー」にパネリストとして参加した。 その時に講演した内容を日本語に置き換え、熱心にサラウンドを学ぶ寺子屋塾生に発表することで、サラウンドについて再検討した。
概要
NHKでは1980年代よりサラウンドのオーディオドラマを制作しており、ドラマにおけるサラウンド制作のノウハウを蓄積してきた。それらを体系的にまとめ、次の4つの視点から講義を進めた。 1.ラジオドラマの利点 2.成功への鍵 3.制作手順 4.結論
1. ラジオドラマの利点
視覚情報がない分、視聴者の想像力を最大に引き出せる。
サラウンドで制作することで、「リアリティー・感情・エネルギー・空間」をより強調することができる。
サラウンド番組では「モノラル・ステレオ・サラウンド」をうまく組み合わせることが重要になる。
今までのモノラルやステレオでの番組制作の経験がサラウンド番組制作に応用できる。
2. 成功への鍵
サラウンドで番組制作するために上司を説得しよう。
サラウンドをミックスするためのチャンスを作ろう。
サラウンドミックス経験者に相談して、彼らの忠告を聞こう。
世界の専門家と情報のやり取りをし、それを通じてノウハウをシェアしよう。
3. 制作手順
ラジオドラマにおける制作手順は次の通り。
セリフ収録
セリフ編集
生音収録/フィールドレコーディング
SE
音楽録音
プリミックス
ファイナルミックス
・ セリフ収録におけるマイクアレンジをいくつか紹介した。
・ サラウンドの音楽録音でのマイク配置をいくつか紹介した。
・ サラウンドでのSE制作の基本となるパターンを説明した。
・ 実際にサラウンドで制作したラジオドラマを視聴した。
2003年5月3日に放送された特集オーディオドラマ「怪し野」の一部を20分間上演。
4. 結論
サラウンド音声は我々にとって魅力ある音声表現である。
サラウンド制作のノウハウを皆と共有することが重要である。
サラウンド制作のチャンスを作り出し、それを逃さない。
ゆっくり着実に前進あるのみ。
最後に
米国AESでのチュートリアル・セミナーでは、SEの作り方について質問が集中した。また日本のラジオ事情についても、いくつかの質問を受けた。一方で、サラウンド寺子屋の塾生の関心は、サラウンド音楽録音に集まり、それについての質問が多かった。 サラウンドの興味の広がりを日本にも定着させるため、情報交換の場や、雑誌などの媒体が必要である。その意味でも、サラウンド寺子屋の存在意義は大変高いものがあり、今後もその活動を支えてゆきたい。
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October 10, 2003
Seigen Onoとのサラウンド談義
「ミスター・サラウンド:ミック沢口に聞く」by SEIGEN ONO
~まず聞いてみよう。そしてサラウンドを通じて友人になりましょう。~
『AESニューヨークで97年』
オノ:最初にお会いしたのはオイスターバーでしたね。僕は別のテーブルで「ヤマハ」の宮脇さんたちといたところを深田さんが見つけて。僕は80年代にはライヴ(PA)やバンドとのツアーもよくやっていて、いい音を出すには、部屋の反射とか響きをぬきには成り立たないわけです。スタジオ録音ではステレオでしたが、その根本的違いを考えたことがなかった。
沢口:AESニューヨークで97年。深田ちゃんがはじめて「FUKADA-TREE」を発表して、僕がマルチチャンネル・セッションのチェアマンとして行ってて。あのときはマルチチャンネルに関するいろんな研究発表のセッションがあったんですよ。大学でいろいろ研究してる人もいれば、コンソール・メーカーでサラウンドのパンニングを研究してる人とかね。世界的にサラウンドにいろんなアプローチが始まったのは94、5年くらいですかね。だからAESでもいろんな論文とか、セッションが立ちあがったのは95、6年くらいから。2001年にはドイツのエルモーというところで、第1回目のサラウンドに関して世界中の人がいろんなことを持ち寄ったカンファレンスが始まり、いろんなことをやろうよという機運になったんですよ。論文発表もあれば、セミナーもあれば、デモもあれば、パネルディスカッションとか。
オノ:時代的には「3348」が「プロツールズ」に代わりはじめて、僕は98年に「パフィー」(99年6月号参照)のレコーディングで初めて「MixPlus」を全面的に使用した。「ソニー」のDSDが登場してサラウンド空間とDSD音質に未来を確信した。僕の発想の原点はやっぱりライブ空間です。ホールの音とかPAを使用した音場とか。これを収録、再現できるのは驚きだったんです。サラウンドと言うと、ご年輩の方には昔の4ch失敗話ばっかり出てきて、駄目だよあれは、という話がありますが…。
沢口:アメリカとかヨーロッパの人もジョークでよく言うんだけれど、「QUAD DISASTER」4チャンネル災害と言ってもうあれは手をつけたくないと、話すのも嫌だっていう人が最初はいましたよ。その多くは4chを経験した人たち。僕は経験してないんですよ。世代が替わってそういうことを知らない人たちがもう一度サラウンドにトライをしたということが、一つの弾みだったのかなという感じがしますね。面白いと思ったわけでしょ、僕らはね。
『ツールも発展。手法も変わる』
沢口:ツールが発達するというのはアーティストの人にとっても、80年代に比べるとすごい進展があって、そのことは大変大きな貢献だなあと思いますよね。今、アメリカだとエリオット・シャイナーというサラウンドのリミックス・エンジニアがいますが彼がスティーリー・ダンの「ガウチョ」をDTSの5.1では2、3年前に出したのかな? それがこんどはSACD盤を出すんですよ。もう一回。
オリジナルのアナログ24トラックを熱処理して「NUENDO」に96/24で取り込みそれをプレイバックしながら「ニーヴ」のVRでミキシングして・・・とか書いてありましたけれど。そのマスターがアナログの2インチの8トラックという特製の!。特製のマスターを用意して、そこからDSDにおとしたそうです。音楽業界でハーフインチの2トラックマスターという考えがありますよね。それに録っておけばフォーマットが換わってもそこから展開できるという、非常にスマートな考え方ですよね。それをシャイナーは2インチの8トラックのアナログで録っておいたら後は何でも出来るというアプローチでやってるんですよ。
オノ:シャイナーが最初にサラウンドに入ったきっかけって何でしょうね?
沢口:シャイナーはねぇ「ガウチョ」もそうだけど、かつてのマスターをリミックスするところからでしたかね…DTS-CDのためにリミックスを頼まれて、最初は解らずにいろいろ試行錯誤したらしいんですよ。彼のアプローチもだんだん変わってるんだけど、最初の頃はヴォーカルはハード・センターだと自分は思って、ヴォーカルはハード・センターにしたと。ところがその90年初期の頃だと、家庭ではステレオに付加したスピーカなどで聞いていた状況なのでボーカルバランスが変わってしまったと後悔したそうです…。その当時はステレオのセットを持ってる人が小さなセンター・スピーカーを付けて、後ろを付けてサラウンドにして聞いてる状況が多かった。そこでハード・センターにメインのヴォーカルを入れちゃったもんだから、すごいバランスが悪かったとけっこう非難されたと言ってました、その後、彼はファンタム・センターにほとんどメインのヴォーカルを入れて…それでハード・センターはほんの押さえくらいにしたんですよ。ところが最近になるとそれがだんだん均等に使うようになってきた。やっぱりインフラの進展とともに手法も変わってきてるんですよ。
オノ:ハード・センターとファンタム・センターをどう使い分けるか、最初の頃はミックスを何度もやり直しました。
沢口:特に音楽のミックスの人はすごく挑戦をしてますよね。ドラマはね意外と映画の歴史があるから、台詞はハード・センター、センターにそれ以外のレベルの大きい音ってあまり入らないですよね、他のチャンネルに振り分けるから…。
『発想の原点ですね。ラジオドラマは』
オノ:沢口さんはサラウンドのきっかけは何でしたか?
沢口:僕の場合は、ずっとステレオでラジオ・ドラマを作ってたじゃないですか、そうすると2スピーカーではその世界がどうしても表現しきれないイメージなどがありましてね。ステレオの表現で限界がある、この台本はステレオじゃ表現できない。何か無いのかなぁと思って勉強しはじめたら。85年くらいですけど、映画でドルビーサラウンドっていうのがあって、3.1のアナログのマトリックスで2ch以上の世界があるということをそこで初めて知って、勉強をし始めたんですよ。実験して、作品もそれで作り始めて、80年代はドルビーマトリックスで作ってましたね。90年代になってディスクリートの3-1になって、90年半ば過ぎぐらいから3-2になって、2000年から3-2+0.1という5.1chにうまく歴史が繋がって進歩してますね。僕は最初にすごいとか思ったんじゃなくて、逆にステレオのあの2つのスピーカーの中だけで表現できないものをなんか表現できるものはないかなあと救いの手を探したいと思って。その当時いろいろ出たんですよ。いろいろ試しましたよね、例えば音場を拡大するとかバーチャルとかねぇ…。ドラマって、イメージで作る世界ってけっこう多いんですよね。リアルな設定のシーン以外に。その時にスピーカーこの間隔だけでその世界…。例えば、どこか未知の天体に不時着しました、主人公がそこの地底に潜ったらとんでもない世界があったというような設定があったとするじゃないですか、そういう…世界を作りたかったのです。
オノ:目で見えてない未知の世界ね。
沢口:そうそう、そういうのを作ろうと思うと、360度音として表現したいなという感じがあるんですよ。すべてじゃないけど、そういう台本もけっこうあったんですよ。ドルビーにいた伏木ちゃんが同世代でドルビーで映画のことをずっと長くやってたんで、彼からいろいろ勉強してね。ああ、そういう世界があるんだ…。じゃあどうやって作ってるんだって現場を人間知りたいじゃないですか、アメリカの映画産業の現場を視たいと思って、当時、「極東コンチネンタル」というところがドルビーのディーリングをしていたので、そこのエディー宮原さんに紹介状を書いてもらってアメリカのドルビー・サンフランシスコで映画関係やってる人を紹介してもらったんですよ。メジャーの映画スタジオを3日間くらいかけて見学それが僕のカルチャーショックの始まりですよ。
僕がすごく大事だと思うところは、自分にいつも自分の課題みたいなものをねどれくらい自分で自分に投げかけてるか、今の仕事で自分は完璧と思ってるのか、それとも自分の仕事で何か足りないところがあるのか、もしあるとするとどういうところを積み上げていくと自分はもっと良い表現が出来るのかとかね自己プレッシャーかな。そのために簡単なのはよその人はどうやってるのかをまず、勉強しようと。自分がわかんないことはわかる人に聞いて自分が知ろうとか、納得しようとかって思う気持ちがあれば、後はバンバン広がって行くんじゃないかと思いますね。自分で自分への課題をどれだけ発見できるかというのが、僕はすごい大きいんじゃないかと思うんですね。
『表現したい情熱が第一にあって』
オノ:「BS朝日」の井上君、エンジニアですけど営業も説得してスポンサー回りして、こういう動きは大事ですね。やりたい
プロジェクトを実現させる。
沢口:ああいうガッツが良いよね。そういうことを表現したいんだ!というすごい情熱が第一にあって…。
僕がアメリカの映画スタジオに見学に行った時が、ルーカスのスカイウォーカー・ランチがちょうど出来たばっかりの時で、スカイウォーカー・ランチの第1期生といわれる人たちがそこに3、4人いてですね、すごい情熱が彼らにあってここで新しい映画のサウンドを作るんだという感じがひしひしと伝わってくるんですよ。残念ながら今、その人たちの中で残ってるはランディー・トムという人ひとりしかいないんだけど、でもひしひしと感じましたよね、新しい映画の音を作るんだということを。ハリウッドのメジャーを見学しても、ぜんぜん僕らが想像していたものと違う規模でやってるわけでしょ、当時ですからアナログなんだけど、ダバーといわれるシネコーダーが何十台も並んでて、「オタリ」のアナログの24トラックが3台くらい回っててね、部屋見ただけですごいですよね、それが一斉に回ってるわけだから。みんなシネコーダーで。2時間の作品でシネコーダーにはコップの音がコンッという音が1個しか入ってなくてもみんな同期しないといけないから、それ以外の部分には無音テープがくっついてるんだよね。
ランディ・トムもスカイウォーカーにくる前は放送のラジオ・ドラマミキサーだったんですよ。だから彼の発想としてベースにラジオ・ドラマがあるんですよ、それを元にして映画のサウンド・デザインをしてるから、他の人と切り口が違うんだよね、表現の仕方が。彼の担当した作品を見て共通して分かるんだけど、ラジオ・ドラマですよ、要するに画に付いた音というのは当たり前…。そうじゃなくて、このシーンから表現できる違う音というのを作っていこうという姿勢見えてね、それが画に合わせて音を付けていくというのと違うアプローチだと思ったんですよ。案の定ラジオ・ドラマやってたんだって。
良い作品を作るために、彼らがどれくらい努力してるかという情熱ね、話して分かったのは。彼らのこだわりと、どうやってこの作品を音として良くするかということをいろいろ考えるアイデア、そういうのはとても勉強になりましたよ。技術部長やってたトム・スコットはそこに行く前はコッポラの『地獄の黙示録』のミキサーのアシスタントみたいなので参画をしたらしいんですけどね。その時に彼らも70mmのフィルムでどうやってコッポラの世界を音として表現するかというんで、当時スプリット・サラウンドといわれて、当時フィルムにはリアに1chしか入らないフォーマットだったんですが、LFEのチャンネルというのは低い方しかないから上は空いてるじゃないですか周波数的に…。そこにもう片チャンの音を入れて、見かけ上2chにして、コッポラのああいう狂気の世界とかジャングルの世界を表現したそうです…。
『オリジナルを考えて人に広めなさい』
オノ:オープンであること大事ですよね。
沢口:すごい大事だと思う。それは僕らがいろんな所へ出かけていった時に学びましたよね。何でも聞いたことは、ちゃんと答えてくれる。その時に必ず彼らが最後に言うのはいつかはそのことをお前が誰かに返せと。いまは君はまだアマチュアで、でも熱意があってここに来たということは充分わかると。でも何年か経って、自分がそういうことをできるようになったら、今度は違う人に…違う国の人でも、自分のところでも変に固まらずに、お前が返す立場に早くなりなさいということを言われましたよ。それは僕の基本に思ってる。彼らは普通ねファーイーストから来て俺たちの技をパクリに来たんだといって毛嫌いするんですよね。日本人は何でもパクリに来ると。それだけじゃ駄目だと。まあ最初はぱくってもいいけど。でも次には何年かたったら、パクリじゃない自分のオリジナルなものを考えて、人と違うモノがもし、自分でできるようになったら、それはまたちがう人に広めなさいと…。
それで初めてお互い友達の関係になれるんだよ・・・とその時多くの人から聞きましたよ。それは今でも大事に僕の基本姿勢にしてますよ。
オノ:日本人の弱点はそこにありますね。遠慮して聞きに行かない、あるいは自分には関係ない仕事だとか。エンジニアでも音楽とラジオ・ドラマやMAじゃあ違うと。
沢口:よくセイゲンとも言うけど、ミキサーは幅広く音楽といってもMAみたいなセンスを持ったミキサーが今から必要だとか言ってるじゃないですか。
オノ:僕の作曲法の考え方はMAです。
沢口:発想が自分はここだというだけでなくて、いろいろオーバーラップする部分を自分で広げていくっていうかな。そういうやり方をする生き様をやっていけば僕はそんなに心配することはないかと思うんだよね。今の時代、実行に移すのはそんなに難しい時代じゃないんですよ、少なくともいろんな仲間はいろんな所に少しずついるし、情報を取ろうと思えば、インターネットだろうがいろんな雑誌だろうが、展示会だろうが、AESコンファレンスとかね、まあヨーロッパとかアメリカとかいろんな所でありますけど、いっぺんでもいいから行って、何かきっかけを自分が作れば、そこからいろんなつてができるという、昔よりも非常にいい時代ですよ。
さっき、ツールの話したんだけど。ツールがデジタルになって、クオリティー的にもいいものが昔よりも0がひとつもふたつも安くできるようになりましたでしょ。その恩恵は僕らは大いに享受すべきだと思うんですよ。だから、セイゲンがよく言う「02R」でもすごいミックスできるんだとかね。というような部分に時代としてはどんどん行ってるわけでしょ。そういう中で、昔通りの、いや俺はこれでなきゃ駄目だとか、ここの範囲が俺の仕事だとかって言ってるだけではなかなか新しい発想は出ないんじゃないかなと思うんですよね。
オノ:「O2R96」や「DM1000」なんか本当にすごくいい音をしています。
『寺子屋って日本のいい人材育成のやり方だなと思うんですよ』
沢口:サラウンドって実際じっくり聞く機会って、スタジオに入った時以外ではなかなかまだ無いじゃないですか。それが自分の作ったテープとか、他の人のをじっくり好きな時間に聞けるし、尚かつそれぞれのチャンネルを聞けるから、すごい勉強になりますね。実験もできるし、自分の素材でこういうデザインやるとどんな感じになるかとかいろんな実験できるからいいかなと。勉強部屋みたいなもんですね。もうひとつさっき、僕がアメリカに行った時に彼らに言われたっていう、自分が得たものをみんなにオープンにしろと、いうのをあのラボで是非今後の人に、やります。あそこで例えば深田ちゃんに自分の作品を再生して若い人にどうやったとか、そういう勉強会…。サラウンド寺子屋。例えばセイゲンが自分のテープを持ってきて、これはこういう意図でこういうマイキングでこんな風にやったと。それはどういう表現をしたかったからこうしたとかね。そういうのを若い人に話をしたり、音を聞いてディスカッションしたり…。
いままでのツールと業務分担では、この人はエンジニアでこういう役割、ディレクターというとこういう役割、プロデューサーというとこういう役割とかね、長い伝統の中であったと思うんですけど。さっきのオーバーラップの話じゃないけど、これだけツールが安く手軽になってくると、そこの部分がオーバーラップして。セイゲンなんかは先駆的にそういうことをやってと思うんだけど、エンジニア、プロデューサー、アーティストみたいにね、だんだんひとりでいろんなことがオーバーラップしてできるような環境になってきたと思うんですよ。そのことも使った方がいいと思うんだよね。
『臨場感=サラウンドは常識でしょ』
オノ:サイデラ・レコードではSACDマルチを積極的に作りますが、それはそのまま臨場感なんです。生に換わる体験ができる。というかそのまんま1:1なんです。
沢口:表現としては、モノーラルであろうが、2chのステレオであろうが、何であろうが、それはかわんないよって人もいるんだけれども、今セイゲンが言ったみたいに、それをより充分伝えられる…あまり苦労しないでね。わりと1対1に近い関係で伝えられると言う意味ではマルチチャンネルというのはすごい近いなと言う感じだし、魅力のひとつという気がするわけですよ。ステレオとかモノーラルというのは、すごく考えていろんな整理をして、あの中に、ある意味では満員電車に人間を押し込めてるようなもんですからね、限られたキャパの中でどうやるかっていうのは。そこである意味での整理ができるからかえっていいんだって言う人もいるんだけど。でもそれがもっと大きな器になって表現できるようになれば、そんなに無理しなくても、表現者の思ってることが家庭まで届けられると言う意味で、僕はマルチチャンネルというのはすごい魅力があるなとおもっいぇいるわけです。一番最初に自分が歯がゆい思いをした…表現が2chじゃできないって…これをなんとかなるのはないかな?と思ったのと同じように、音楽であろうが何であろうがスポーツであろうが劇場中継であろうがコンサート・ホールであろうが、無理をしないで現場の雰囲気とか表現が家庭までそんなに劣化しないで届けられるという手段としてマルチチャンネルというのはなかなか魅力があるんじゃないかなという感じがしますね。
オノ:マルチチャンネルは普通に良いよって広めたい。教えてあげたいって言うより、何で経験しないのって感じですかね?
沢口:いや、その通りですよ。ひとつはなかなか経験する場がまだ少ない。いくらホームシアターが増えたといっても。楽しんでる方の多くはDVDの映画とかだけですよね。それ以外でももっと楽しめるんだよというのを広めるし、体験してもらえるという場としてね、僕なんかは自分のホームスタジオをそういう寺子屋にできれば…。
また、自分が他人の作品をあそこでじっくり聞いて、自分自身の世界を高めたいというのがまずありますよね。自分の世界をサラウンドとしても広めたい。これはごく身近な、自分を高めるってことだよね。もう一つはそれをいろんな、今からの人に体験してもらって、魅力を感じてもらいたい。これは僕の次の世代の人達になんとか広めたいなと。もうひとつは、半分趣味になるかも知れないけど、セイゲンみたいに自分のレーベルでね…作品をここから世に問うようなものを、いずれは出していきたいと思ってるんですよ。
セイゲンのところに海外から来た人がいっぱい遊びに寄るように、僕のところにも…。セイゲンのところは音楽オリエントじゃないですか、仕事柄ね。じゃあそれ以外のジャンルの人でサラウンドとかに興味を持ってる人が、例えばもう1日余分にいて沢口のところに行って、ゆっくりワインでも飲みながら聞いてみようかとかいうような場になれば、それはそれで僕はうれしいですね。(了)
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「サラウンド入門」は実践的な解説書です
~まず聞いてみよう。そしてサラウンドを通じて友人になりましょう。~
『AESニューヨークで97年』
オノ:最初にお会いしたのはオイスターバーでしたね。僕は別のテーブルで「ヤマハ」の宮脇さんたちといたところを深田さんが見つけて。僕は80年代にはライヴ(PA)やバンドとのツアーもよくやっていて、いい音を出すには、部屋の反射とか響きをぬきには成り立たないわけです。スタジオ録音ではステレオでしたが、その根本的違いを考えたことがなかった。
沢口:AESニューヨークで97年。深田ちゃんがはじめて「FUKADA-TREE」を発表して、僕がマルチチャンネル・セッションのチェアマンとして行ってて。あのときはマルチチャンネルに関するいろんな研究発表のセッションがあったんですよ。大学でいろいろ研究してる人もいれば、コンソール・メーカーでサラウンドのパンニングを研究してる人とかね。世界的にサラウンドにいろんなアプローチが始まったのは94、5年くらいですかね。だからAESでもいろんな論文とか、セッションが立ちあがったのは95、6年くらいから。2001年にはドイツのエルモーというところで、第1回目のサラウンドに関して世界中の人がいろんなことを持ち寄ったカンファレンスが始まり、いろんなことをやろうよという機運になったんですよ。論文発表もあれば、セミナーもあれば、デモもあれば、パネルディスカッションとか。
オノ:時代的には「3348」が「プロツールズ」に代わりはじめて、僕は98年に「パフィー」(99年6月号参照)のレコーディングで初めて「MixPlus」を全面的に使用した。「ソニー」のDSDが登場してサラウンド空間とDSD音質に未来を確信した。僕の発想の原点はやっぱりライブ空間です。ホールの音とかPAを使用した音場とか。これを収録、再現できるのは驚きだったんです。サラウンドと言うと、ご年輩の方には昔の4ch失敗話ばっかり出てきて、駄目だよあれは、という話がありますが…。
沢口:アメリカとかヨーロッパの人もジョークでよく言うんだけれど、「QUAD DISASTER」4チャンネル災害と言ってもうあれは手をつけたくないと、話すのも嫌だっていう人が最初はいましたよ。その多くは4chを経験した人たち。僕は経験してないんですよ。世代が替わってそういうことを知らない人たちがもう一度サラウンドにトライをしたということが、一つの弾みだったのかなという感じがしますね。面白いと思ったわけでしょ、僕らはね。
『ツールも発展。手法も変わる』
沢口:ツールが発達するというのはアーティストの人にとっても、80年代に比べるとすごい進展があって、そのことは大変大きな貢献だなあと思いますよね。今、アメリカだとエリオット・シャイナーというサラウンドのリミックス・エンジニアがいますが彼がスティーリー・ダンの「ガウチョ」をDTSの5.1では2、3年前に出したのかな? それがこんどはSACD盤を出すんですよ。もう一回。
オリジナルのアナログ24トラックを熱処理して「NUENDO」に96/24で取り込みそれをプレイバックしながら「ニーヴ」のVRでミキシングして・・・とか書いてありましたけれど。そのマスターがアナログの2インチの8トラックという特製の!。特製のマスターを用意して、そこからDSDにおとしたそうです。音楽業界でハーフインチの2トラックマスターという考えがありますよね。それに録っておけばフォーマットが換わってもそこから展開できるという、非常にスマートな考え方ですよね。それをシャイナーは2インチの8トラックのアナログで録っておいたら後は何でも出来るというアプローチでやってるんですよ。
オノ:シャイナーが最初にサラウンドに入ったきっかけって何でしょうね?
沢口:シャイナーはねぇ「ガウチョ」もそうだけど、かつてのマスターをリミックスするところからでしたかね…DTS-CDのためにリミックスを頼まれて、最初は解らずにいろいろ試行錯誤したらしいんですよ。彼のアプローチもだんだん変わってるんだけど、最初の頃はヴォーカルはハード・センターだと自分は思って、ヴォーカルはハード・センターにしたと。ところがその90年初期の頃だと、家庭ではステレオに付加したスピーカなどで聞いていた状況なのでボーカルバランスが変わってしまったと後悔したそうです…。その当時はステレオのセットを持ってる人が小さなセンター・スピーカーを付けて、後ろを付けてサラウンドにして聞いてる状況が多かった。そこでハード・センターにメインのヴォーカルを入れちゃったもんだから、すごいバランスが悪かったとけっこう非難されたと言ってました、その後、彼はファンタム・センターにほとんどメインのヴォーカルを入れて…それでハード・センターはほんの押さえくらいにしたんですよ。ところが最近になるとそれがだんだん均等に使うようになってきた。やっぱりインフラの進展とともに手法も変わってきてるんですよ。
オノ:ハード・センターとファンタム・センターをどう使い分けるか、最初の頃はミックスを何度もやり直しました。
沢口:特に音楽のミックスの人はすごく挑戦をしてますよね。ドラマはね意外と映画の歴史があるから、台詞はハード・センター、センターにそれ以外のレベルの大きい音ってあまり入らないですよね、他のチャンネルに振り分けるから…。
『発想の原点ですね。ラジオドラマは』
オノ:沢口さんはサラウンドのきっかけは何でしたか?
沢口:僕の場合は、ずっとステレオでラジオ・ドラマを作ってたじゃないですか、そうすると2スピーカーではその世界がどうしても表現しきれないイメージなどがありましてね。ステレオの表現で限界がある、この台本はステレオじゃ表現できない。何か無いのかなぁと思って勉強しはじめたら。85年くらいですけど、映画でドルビーサラウンドっていうのがあって、3.1のアナログのマトリックスで2ch以上の世界があるということをそこで初めて知って、勉強をし始めたんですよ。実験して、作品もそれで作り始めて、80年代はドルビーマトリックスで作ってましたね。90年代になってディスクリートの3-1になって、90年半ば過ぎぐらいから3-2になって、2000年から3-2+0.1という5.1chにうまく歴史が繋がって進歩してますね。僕は最初にすごいとか思ったんじゃなくて、逆にステレオのあの2つのスピーカーの中だけで表現できないものをなんか表現できるものはないかなあと救いの手を探したいと思って。その当時いろいろ出たんですよ。いろいろ試しましたよね、例えば音場を拡大するとかバーチャルとかねぇ…。ドラマって、イメージで作る世界ってけっこう多いんですよね。リアルな設定のシーン以外に。その時にスピーカーこの間隔だけでその世界…。例えば、どこか未知の天体に不時着しました、主人公がそこの地底に潜ったらとんでもない世界があったというような設定があったとするじゃないですか、そういう…世界を作りたかったのです。
オノ:目で見えてない未知の世界ね。
沢口:そうそう、そういうのを作ろうと思うと、360度音として表現したいなという感じがあるんですよ。すべてじゃないけど、そういう台本もけっこうあったんですよ。ドルビーにいた伏木ちゃんが同世代でドルビーで映画のことをずっと長くやってたんで、彼からいろいろ勉強してね。ああ、そういう世界があるんだ…。じゃあどうやって作ってるんだって現場を人間知りたいじゃないですか、アメリカの映画産業の現場を視たいと思って、当時、「極東コンチネンタル」というところがドルビーのディーリングをしていたので、そこのエディー宮原さんに紹介状を書いてもらってアメリカのドルビー・サンフランシスコで映画関係やってる人を紹介してもらったんですよ。メジャーの映画スタジオを3日間くらいかけて見学それが僕のカルチャーショックの始まりですよ。
僕がすごく大事だと思うところは、自分にいつも自分の課題みたいなものをねどれくらい自分で自分に投げかけてるか、今の仕事で自分は完璧と思ってるのか、それとも自分の仕事で何か足りないところがあるのか、もしあるとするとどういうところを積み上げていくと自分はもっと良い表現が出来るのかとかね自己プレッシャーかな。そのために簡単なのはよその人はどうやってるのかをまず、勉強しようと。自分がわかんないことはわかる人に聞いて自分が知ろうとか、納得しようとかって思う気持ちがあれば、後はバンバン広がって行くんじゃないかと思いますね。自分で自分への課題をどれだけ発見できるかというのが、僕はすごい大きいんじゃないかと思うんですね。
『表現したい情熱が第一にあって』
オノ:「BS朝日」の井上君、エンジニアですけど営業も説得してスポンサー回りして、こういう動きは大事ですね。やりたい
プロジェクトを実現させる。
沢口:ああいうガッツが良いよね。そういうことを表現したいんだ!というすごい情熱が第一にあって…。
僕がアメリカの映画スタジオに見学に行った時が、ルーカスのスカイウォーカー・ランチがちょうど出来たばっかりの時で、スカイウォーカー・ランチの第1期生といわれる人たちがそこに3、4人いてですね、すごい情熱が彼らにあってここで新しい映画のサウンドを作るんだという感じがひしひしと伝わってくるんですよ。残念ながら今、その人たちの中で残ってるはランディー・トムという人ひとりしかいないんだけど、でもひしひしと感じましたよね、新しい映画の音を作るんだということを。ハリウッドのメジャーを見学しても、ぜんぜん僕らが想像していたものと違う規模でやってるわけでしょ、当時ですからアナログなんだけど、ダバーといわれるシネコーダーが何十台も並んでて、「オタリ」のアナログの24トラックが3台くらい回っててね、部屋見ただけですごいですよね、それが一斉に回ってるわけだから。みんなシネコーダーで。2時間の作品でシネコーダーにはコップの音がコンッという音が1個しか入ってなくてもみんな同期しないといけないから、それ以外の部分には無音テープがくっついてるんだよね。
ランディ・トムもスカイウォーカーにくる前は放送のラジオ・ドラマミキサーだったんですよ。だから彼の発想としてベースにラジオ・ドラマがあるんですよ、それを元にして映画のサウンド・デザインをしてるから、他の人と切り口が違うんだよね、表現の仕方が。彼の担当した作品を見て共通して分かるんだけど、ラジオ・ドラマですよ、要するに画に付いた音というのは当たり前…。そうじゃなくて、このシーンから表現できる違う音というのを作っていこうという姿勢見えてね、それが画に合わせて音を付けていくというのと違うアプローチだと思ったんですよ。案の定ラジオ・ドラマやってたんだって。
良い作品を作るために、彼らがどれくらい努力してるかという情熱ね、話して分かったのは。彼らのこだわりと、どうやってこの作品を音として良くするかということをいろいろ考えるアイデア、そういうのはとても勉強になりましたよ。技術部長やってたトム・スコットはそこに行く前はコッポラの『地獄の黙示録』のミキサーのアシスタントみたいなので参画をしたらしいんですけどね。その時に彼らも70mmのフィルムでどうやってコッポラの世界を音として表現するかというんで、当時スプリット・サラウンドといわれて、当時フィルムにはリアに1chしか入らないフォーマットだったんですが、LFEのチャンネルというのは低い方しかないから上は空いてるじゃないですか周波数的に…。そこにもう片チャンの音を入れて、見かけ上2chにして、コッポラのああいう狂気の世界とかジャングルの世界を表現したそうです…。
『オリジナルを考えて人に広めなさい』
オノ:オープンであること大事ですよね。
沢口:すごい大事だと思う。それは僕らがいろんな所へ出かけていった時に学びましたよね。何でも聞いたことは、ちゃんと答えてくれる。その時に必ず彼らが最後に言うのはいつかはそのことをお前が誰かに返せと。いまは君はまだアマチュアで、でも熱意があってここに来たということは充分わかると。でも何年か経って、自分がそういうことをできるようになったら、今度は違う人に…違う国の人でも、自分のところでも変に固まらずに、お前が返す立場に早くなりなさいということを言われましたよ。それは僕の基本に思ってる。彼らは普通ねファーイーストから来て俺たちの技をパクリに来たんだといって毛嫌いするんですよね。日本人は何でもパクリに来ると。それだけじゃ駄目だと。まあ最初はぱくってもいいけど。でも次には何年かたったら、パクリじゃない自分のオリジナルなものを考えて、人と違うモノがもし、自分でできるようになったら、それはまたちがう人に広めなさいと…。
それで初めてお互い友達の関係になれるんだよ・・・とその時多くの人から聞きましたよ。それは今でも大事に僕の基本姿勢にしてますよ。
オノ:日本人の弱点はそこにありますね。遠慮して聞きに行かない、あるいは自分には関係ない仕事だとか。エンジニアでも音楽とラジオ・ドラマやMAじゃあ違うと。
沢口:よくセイゲンとも言うけど、ミキサーは幅広く音楽といってもMAみたいなセンスを持ったミキサーが今から必要だとか言ってるじゃないですか。
オノ:僕の作曲法の考え方はMAです。
沢口:発想が自分はここだというだけでなくて、いろいろオーバーラップする部分を自分で広げていくっていうかな。そういうやり方をする生き様をやっていけば僕はそんなに心配することはないかと思うんだよね。今の時代、実行に移すのはそんなに難しい時代じゃないんですよ、少なくともいろんな仲間はいろんな所に少しずついるし、情報を取ろうと思えば、インターネットだろうがいろんな雑誌だろうが、展示会だろうが、AESコンファレンスとかね、まあヨーロッパとかアメリカとかいろんな所でありますけど、いっぺんでもいいから行って、何かきっかけを自分が作れば、そこからいろんなつてができるという、昔よりも非常にいい時代ですよ。
さっき、ツールの話したんだけど。ツールがデジタルになって、クオリティー的にもいいものが昔よりも0がひとつもふたつも安くできるようになりましたでしょ。その恩恵は僕らは大いに享受すべきだと思うんですよ。だから、セイゲンがよく言う「02R」でもすごいミックスできるんだとかね。というような部分に時代としてはどんどん行ってるわけでしょ。そういう中で、昔通りの、いや俺はこれでなきゃ駄目だとか、ここの範囲が俺の仕事だとかって言ってるだけではなかなか新しい発想は出ないんじゃないかなと思うんですよね。
オノ:「O2R96」や「DM1000」なんか本当にすごくいい音をしています。
『寺子屋って日本のいい人材育成のやり方だなと思うんですよ』
沢口:サラウンドって実際じっくり聞く機会って、スタジオに入った時以外ではなかなかまだ無いじゃないですか。それが自分の作ったテープとか、他の人のをじっくり好きな時間に聞けるし、尚かつそれぞれのチャンネルを聞けるから、すごい勉強になりますね。実験もできるし、自分の素材でこういうデザインやるとどんな感じになるかとかいろんな実験できるからいいかなと。勉強部屋みたいなもんですね。もうひとつさっき、僕がアメリカに行った時に彼らに言われたっていう、自分が得たものをみんなにオープンにしろと、いうのをあのラボで是非今後の人に、やります。あそこで例えば深田ちゃんに自分の作品を再生して若い人にどうやったとか、そういう勉強会…。サラウンド寺子屋。例えばセイゲンが自分のテープを持ってきて、これはこういう意図でこういうマイキングでこんな風にやったと。それはどういう表現をしたかったからこうしたとかね。そういうのを若い人に話をしたり、音を聞いてディスカッションしたり…。
いままでのツールと業務分担では、この人はエンジニアでこういう役割、ディレクターというとこういう役割、プロデューサーというとこういう役割とかね、長い伝統の中であったと思うんですけど。さっきのオーバーラップの話じゃないけど、これだけツールが安く手軽になってくると、そこの部分がオーバーラップして。セイゲンなんかは先駆的にそういうことをやってと思うんだけど、エンジニア、プロデューサー、アーティストみたいにね、だんだんひとりでいろんなことがオーバーラップしてできるような環境になってきたと思うんですよ。そのことも使った方がいいと思うんだよね。
『臨場感=サラウンドは常識でしょ』
オノ:サイデラ・レコードではSACDマルチを積極的に作りますが、それはそのまま臨場感なんです。生に換わる体験ができる。というかそのまんま1:1なんです。
沢口:表現としては、モノーラルであろうが、2chのステレオであろうが、何であろうが、それはかわんないよって人もいるんだけれども、今セイゲンが言ったみたいに、それをより充分伝えられる…あまり苦労しないでね。わりと1対1に近い関係で伝えられると言う意味ではマルチチャンネルというのはすごい近いなと言う感じだし、魅力のひとつという気がするわけですよ。ステレオとかモノーラルというのは、すごく考えていろんな整理をして、あの中に、ある意味では満員電車に人間を押し込めてるようなもんですからね、限られたキャパの中でどうやるかっていうのは。そこである意味での整理ができるからかえっていいんだって言う人もいるんだけど。でもそれがもっと大きな器になって表現できるようになれば、そんなに無理しなくても、表現者の思ってることが家庭まで届けられると言う意味で、僕はマルチチャンネルというのはすごい魅力があるなとおもっいぇいるわけです。一番最初に自分が歯がゆい思いをした…表現が2chじゃできないって…これをなんとかなるのはないかな?と思ったのと同じように、音楽であろうが何であろうがスポーツであろうが劇場中継であろうがコンサート・ホールであろうが、無理をしないで現場の雰囲気とか表現が家庭までそんなに劣化しないで届けられるという手段としてマルチチャンネルというのはなかなか魅力があるんじゃないかなという感じがしますね。
オノ:マルチチャンネルは普通に良いよって広めたい。教えてあげたいって言うより、何で経験しないのって感じですかね?
沢口:いや、その通りですよ。ひとつはなかなか経験する場がまだ少ない。いくらホームシアターが増えたといっても。楽しんでる方の多くはDVDの映画とかだけですよね。それ以外でももっと楽しめるんだよというのを広めるし、体験してもらえるという場としてね、僕なんかは自分のホームスタジオをそういう寺子屋にできれば…。
また、自分が他人の作品をあそこでじっくり聞いて、自分自身の世界を高めたいというのがまずありますよね。自分の世界をサラウンドとしても広めたい。これはごく身近な、自分を高めるってことだよね。もう一つはそれをいろんな、今からの人に体験してもらって、魅力を感じてもらいたい。これは僕の次の世代の人達になんとか広めたいなと。もうひとつは、半分趣味になるかも知れないけど、セイゲンみたいに自分のレーベルでね…作品をここから世に問うようなものを、いずれは出していきたいと思ってるんですよ。
セイゲンのところに海外から来た人がいっぱい遊びに寄るように、僕のところにも…。セイゲンのところは音楽オリエントじゃないですか、仕事柄ね。じゃあそれ以外のジャンルの人でサラウンドとかに興味を持ってる人が、例えばもう1日余分にいて沢口のところに行って、ゆっくりワインでも飲みながら聞いてみようかとかいうような場になれば、それはそれで僕はうれしいですね。(了)
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August 10, 2003
Mick & Akira AES Fellowship Award受賞者 Special対談
沢口 真生 × 深田 晃 サラウンド・ソフト開拓者2人の軌跡
By Mick Sawaguchi 沢口真生
サラウンド・ソフトに関して国内外を問わず、実際のサラウンド・ソフト制作から普及・啓蒙活動まで多岐にわたり尽力された功績を讃え、AESより“AES Fellowship Award”が沢口真生氏(2002年)、深田晃氏(2001年)にそれぞれ授与された。
AESという世界中のオーディオに関わるスペシャリストにより構成される団体において、その功績が表彰されたこと自体が特筆すべきことであり、しかもサラウンド・ソフトに関して同じ放送局(NHK)のエンジニアが受賞されたことはまさに快挙と言える。このことは同時に、サラウンドという素晴らしい音声表現手法の進展において、日本が世界をリードしているとも言え、沢口氏・深田氏の両名は世界に誇るべき日本のオーディオ・エンジニアであることを裏付けるものである。
ここでは、AESおよびサラウンドに関して、お二人がこれまでどのような取り組みをされて来たかを対談の形で振り返って頂き、その軌跡を誌面に残すと同時に、この記事をお読みになった方の中からお二人に続く“開拓者”が現出することを願うものである。
AESとは?
―― まずは遅ればせながら、AES Fellowship Awardの受賞、おめでとうございます。それでは最初に、AESという団体についてご存じない方もいるかと思いますので、AESの沿革・活動内容等を沢口様からご紹介頂けますでしょうか。
沢口:AES(エーイーエス)というのは、正式には“Audio Engineering Society”という団体でして、その頭文字を取ってAESと呼んでいます。
AESのメンバーとしては、大学の研究者や教授、メーカーの設計者、われわれのようなミキシングエンジニア、音楽家、作曲家、映画の音響関係者、SRの方等々、とにかく分野を問わず“音”に関わるプロフェッショナルの方々が世界中から集まっているという、非常にユニークな団体です。
AESは1947年に設立されまして、現在本部はニューヨークにあります。世界において41ヶ国・66支部まで広がって来ており、現在は東欧圏や南アメリカが加わってもう少し増えています。全メンバーは22,000名を数え、うち日本人メンバーは約400名です。
AESの活動目的ですが、キーワードは“アート”、“サイエンス”、“テクノロジー”、つまり音に関する芸術的・科学的・技術的観点をもって、参加メンバーが色々な角度から研究し情報交換することによって、音の世界の発展に寄与するというものです。
大きな集まりとしては、年に2回のコンベンションを開催し、機器展示、ワークショップ、セミナー等を行います。これは春にヨーロッパ、秋にアメリカで開催され、特にアメリカは広いものですから西海岸と東海岸で1年交代で開催します。さらに西海岸でも、ロサンゼルスとサンフランシスコが1年交代という形になっています。
これ以外にも、世界各地でコンベンションやカンファレンスといったものが、各支部独自に行われています。日本では隔年で“AES東京コンベンション”を開催しており、今年は7月7日(月)~9日(水)、東京九段の科学技術館で開催されました。
特にヨーロッパとアメリカの2大コンベンションでの、最新技術や研究発表は、その後の音のトレンドに影響しますので音に関心のある方々は、参加する価値が十二分にあると言えます。
AES Fellowship Award受賞について
―― さて、これからお二人の開拓の軌跡を追って行きたいと思います。まず“AES Fellowship Award”についてですが、今回の受賞理由をお聞かせください。
深田:賞状に述べられているものを言うと「レコーディングと放送の技術に対して著しい貢献をしました」ということですが、AESでの論文発表などの活動としてはサラウンドに関するものしかやっておりませんので、要は「サラウンド音楽制作における貢献」ということでしょうね。賞状にはサラウンドとは入っておりませんが(笑い)
沢口:深田さんは特に音楽のサラウンド録音に関して先駆的に取り組んで来て、“FUKADA-Tree”というマイキング手法も世に先駆けてAESで発表したり、音楽のサラウンド録音についての発表やワークショップ、セミナーなどをAESで行って来ましたので、その貢献が表彰された理由だと思います。
―― 沢口様はかなり前からサラウンドに関する様々な取り組みをされて来たと思いますが、沢口様の受賞もサラウンドに関するものなのでしょうか。
沢口:私の場合も、サラウンドという文字は賞状には書かれていませんが、「放送界で永きにわたりサラウンドについて様々な貢献をして来たことに対して」と受けとめています。
私は1980年半ばからサラウンドのソフト開発を行って来て、AESでもサラウンドに関する発表やワークショップ、セミナーを行ったり論文チェアマンを務めたりして来ましたので、そういった諸々の活動を評価されたものだと思っています。
―― この受賞というのは、世界において認められたということですから非常に素晴らしいことなのですが、受賞の報せを耳にした時の率直な感想をお聞かせください。
深田:もちろん嬉しいことなのですが、何か突然表彰されたという感じでとまどったと言いますか、これをどう受けとめたらいいものかと思いました。
このAESのAwardには色々な種類がありまして、それぞれのAwardの中でさらにゴールドメダル、シルバーメダル、ブロンズメダルと分けられており、私はシルバーメダルで推薦されたと聞いています。これを受賞するためには、まずAESのFellowになっていて、そこからさらに5年を経ていないと受賞資格はないということです。
―― 沢口様は昨年受賞されて、Inter BEE 2002でのサラウンドのシンポジウム司会などのため幕張メッセに詰めている最中に表彰状が届くというハプニングがあったそうですが、賞状を手にした時はいかがでしたか。
沢口:素直に個人賞というのは嬉しいですね。ましてや、このAwardというのは自分が力を注いで来たことが世界で認められたということですから、嬉しいというのが率直な感想です。
―― AES Fellowship Awardで、サラウンド・ソフト関連で他に受賞された方はいらっしゃるのでしょうか。
深田:最近では、AES日本支部長を務められた日本ビクターの鈴木さん等が受賞されています。
沢口:アメリカのトム・ホルマン氏が受賞したかと思いますが、彼もソフトではなくテクニカルな面での受賞だと思います。
このAESにはかなりアカデミックな傾向がありますので、実際のソフト制作という分野にはあまり陽が当たらないんですね。どうしても理論や測定法など学術的な研究といった方に注目が集まってしまいます。
―― そういう意味では、純ソフトで、しかもサラウンドに関して、世界に先駆けて日本の同じ放送局の方が2年連続で受賞されたというのは、まさに快挙というほかありませんね。
ゴールデンコンビ・2人の出会い
―― 沢口様と深田様は、特にサラウンドに関してのゴールデンコンビであるとお見受けしておりますが、お二人の出会いからの経緯などをお聞かせください。
深田:私は1991年にいわゆるキャリア採用という形で現在に至っており、その前はレコード会社にいました。沢口さんがどのくらい前からサラウンドに取り組まれているかはよく知らないのですが、前の会社にいた当時はドルビー・サラウンドというものがありました。当然ドルビーサラウンドでライブ録音をやっている人もいましたが、私自身は携わっていませんでした。
当時は、スタジオ設備も4ch再生ができる環境にはなっていましたが、ちょうど4chブームが終わった後で、後ろのスピーカは使わない、もしくはフタをしてしまっている、そういう時代でした。
そしてNHKに身を置くことになったわけですが、その当時NHKでは3-1サラウンドやドルビー・サラウンドを実験的に行っていて、私も少なからず興味もあり、また実際にサラウンド作品をいくつかつくってもいました。
番組としては当時、NHKホールで演歌中心の「歌謡コンサート」という生番組を毎週担当していまして、3-1サラウンドとドルビー・サラウンドを同時につくって生放送するというものでした。これはそれまでの先輩方の努力もあってできていたことなのですが、よく考えてみるとすごく大変なことをいとも簡単にやっていたわけですね。
沢口さんとは当時「音声」という同じ職場におりましたが、担当するジャンルも違いましたので特に話をする機会もあまりありませんでした。ただ、沢口さんがサラウンドに熱心に取り組まれていることは当然知っていました。そんな時に沢口さんから「音楽でこういうスゴイことをやっているんだから、AESという世界の場で発表してみないか」と声を掛けられたのが最初と言えば最初ですね。
沢口:第100回のAESコンベンションが1996年、コペンハーゲンで行われたのですが、その時、普通は見かけない「放送現業部門」という論文発表のジャンルがあったんですね。私自身はそこでHD-TV 3-2制作を発表するつもりでしたが、先ほど深田さんが言ったようにNHKでも色々なことに取り組んでいましたし、世界にアピールするチャンスだと思い、深田さんに声を掛けたわけです。
深田:この最初の時は苦労しました(笑い)いきなり発表しろと言われても、何をどうすればいいのか分からないわけですから。
沢口:でも、私も海外での発表というのは、その時が2度目だったんですよ。私は、日本人もそういう経験をどんどん積むべきだと思っています。自分達がやっていることを業務の中だけで終わらせないで、世の中の人にアピールして行く。それによって自分の、また会社の存在価値も上がり、自分にとっても勉強になるわけですから。
ただ、AESでの発表時間は15分なので、その15分という限られた時間の中でセールスポイントを述べるというのは結構大変なんですよ。
深田:プレゼンと言うと、その頃はまだOHPでしたね。
沢口:そう、OHPかスライドを用意するという…。今のようにパソコンでプレゼンとかやれない時代ですからね。
深田:でも1996年、ほんの数年前の話なんですがね。
―― このAESに関すること以外には、例えば一緒に作品をつくられたりしたことはありますか。
深田:それはもちろんあります。
沢口:例えば私のラジオドラマで、深田さんにドラマ音楽を担当してもらったりとか。でも普段の仕事で一緒に行動するというのはほとんどありません。
―― すると、お二人が一緒に活動するというのは、AESにおけるものということですね。
沢口:私達は自称「サラウンド・クルセイダース」と言っていますが(笑い)それ以降、2人で一緒にサラウンド・ソフトの発表やセミナーをやって来ましたので、海外の人にもペアで覚えられていることが多いです。「お前達はいつも一緒にいるけど、何か特別な関係じゃないか?」と言われたりもしますが、決してそういうことはありませんので念のため(笑い)
サラウンドとの出会い
―― それではサラウンド・クルセイダースのお二人にあらためてお聞きしますが(笑い)サラウンドというものに初めて出会った頃の、サラウンドに対する印象などをお願いします。
沢口:私は1985年頃ですね。ずっとラジオドラマの制作をして来たわけですが、ラジオドラマの世界にあって、どうしても2chでは表現しきれない、2chでは限界だという想いが自分の中にあったんですね。
そこで「何かないものか」と探っていたところに、映画でドルビー・ステレオをやっているという話を聞いて、勉強を始めました。日本では映画でドルビー・ステレオを手掛けている瀬川さんという方がいまして、その瀬川さんにお話を聞きに伺ったり、ドルビー日本支社からアメリカのドルビー本社を紹介して頂いて実際にどうやっているのかを見に行ったりしました。
そこで初めて触れたときは、まさに「カルチャーショック」でしたね。実際にサラウンド・ミックスをやっている映画のスタジオをたくさん見せてもらったり、ちょうどその頃ジョージ・ルーカス氏のスカイ・ウォーカー・ランチができたところで当時の技術担当トム スコットに話を聞いたりしました。アメリカのポストプロダクションではマルチトラック・レコーダが当たり前で、片や日本ではMA-VTRという2インチのテープにオーディオが4トラック入るという状況ですから、機材的な面でもショックを受けました。
その後NHKでは1987年にCD-809スタジオを改修することになり、その時に是非マルチチャンネルを出力できるコンソールを入れてほしいということと、当時3-1サラウンドをやっていましたので3-1のモニタリング環境を整えたいという要望を出し、まわりの99%の反対を押し切って(笑い)マルチチャンネルのポスプロ設備が出来上がったわけです。
ただ、すべてが初めてのことでしたからかなり大変でした。そのコンソールの選定のときに、Neveにもマルチチャンネル対応コンソールのオファーをしたんですが、4chで苦い経験をしていたこともあり断られてしまいました。そこでタムラ製作所の協力を得て、新規にコンソールを開発しました。
他にも、例えばスタジオの音響設計も全く手探りの状態でしたから、色々と失敗もしましたし局内の関連セクションの中にもサラウンドに造詣の深い方もいませんでしたし、サラウンドに取り組み始めた頃は本当に大変でした。
それでもとにかくスタジオができましたので、それでは作品をつくりましょうということでつくったのが、ラジオドラマ「シュナの旅」という作品です。これは今をときめく宮崎駿氏原作のアドベンチャー物で、アナログのドルビー・サラウンドでつくったものです。実際の放送では、ドルビー・サラウンドを2chマトリクスで送出して、普通の受信機ではステレオで、ドルビーのデコーダをお持ちの方はサラウンドで聴けるという形でした。
その当時、関西の放送局の方々がサラウンドに熱心に取り組んでおられて、1988~1989年頃の「関西のサラウンドパワー」といったものはスゴイものがありました。本放送とは別の実験的なものですが、すでにその時スポーツ中継の可能性も探っていました。アメリカでは、NBCがスーパーボウルを初めてサラウンドで放送したというのがありましたね。
深田:沢口さんの時は、放送界においてサラウンドというのは全く話にも出て来ない頃ですから、カルチャーショック的なものがあったんだと思います。
私はレコード会社にいた頃からドルビー・サラウンドというのが身近にありましたので、特に衝撃を受けたというのはないのですが、NHKに来て初めてサラウンド作品をつくる段になった時「サラウンドで何ができるのか」を考えましたね。
私はずっと音楽をやって来たわけですが、つくる目的としては「音楽で何を伝えるか」ですから、ステレオのL, Rにセンターチャンネルと後ろのサラウンドが加わった環境の中で、音楽においてステレオと違った何を伝えることができるんだろう、ということです。それが明確にならなければ、何のためにつくるのか分からなくなりますので。
現在の5.1chもそうですが、何でもかんでも5.1chにすればいいわけではなくて、「5.1chの方がより良い作品になる」という必然性がなければいけないと思います。
初めてのサラウンド作品は、1992年にNHKホールでつくった「プラシド・ドミンゴ コンサート」です。これはハイビジョン・3-1サラウンドでした。NHK入局の1年後につくっていたんですね。
―― お二人ともに、サラウンド第1作をつくられた時はさぞ大変だったことと思います。その時の状況を振り返ってお聞かせください。
沢口:私はそのラジオドラマ制作においてTD的に携わったんですが、やはり第1作ということで感慨深かったですね。
当時のドルビー・マトリクスというのはなかなか理屈通りに行かないところがあって、3-1の出力がそのまま出るわけではなくて、入口と出口で音が変わってしまうんです。それをどうやってコントロールするかというのが、実際にやってみて初めて分かった大変な部分ですね。定位も変わるし音色も変わるし、仕上げるまでが大変でした。
―― 現在の5.1chと比べると、その辺はどうなんでしょうか。
沢口:それは今のディスクリート方式の方がはるかに楽ですよ。サラウンドでデザインした音が、思った通りのところに行きますから。
深田:私の第1作の時は、ハイビジョンの実験放送が始まっていてディスクリート方式でしたから、沢口さんのおっしゃったような苦労はありませんでしたが、今の5.1chでもまず議論になる「センターチャンネルをどう使うか」というのがまず課題としてありましたね。センターの音とステレオの左右の音の音色が違うので、それをどうするかが大変でした。
あと、通常のレコーディングでもそうですが、やはり何か工夫をしないとつまらないじゃないですか。例えば床に置くバウンダリーマイクがあります、床面から数ミリのところは直接音も反射音も同じだから音に色がつかない、ならばやってみようと、スタジオの床に普通のマイクを近付けて録ってみたりとか、そういうことはかなりやりましたね。これはサラウンドでも同じことで、結果として良くなければ意味がないので、そのためには色々なことをやってみる必要があると思います。
沢口:特にマイキングなどは、音楽の場合は大変でしょうね。私の場合はポストプロダクションですから、セリフ・音楽・効果音など別々の素材をどうデザインするかがポイントになります。そこで先ほど言ったように、ドルビーのマトリクスが思うように行かないのが大変だったというわけです。
深田:ただ、レコード会社にいた時からマイキングはアメリカ方式だったんですよ。テラークの3本マイクであるとか、デッカ・ツリーという方式で、ステレオ収録なんですがマイクは3本使っていました。ですから、3本のマイクを使うということ自体は全く違和感はなく、その後のバランスの取り方が難しかったんです。
―― やはり初めてサラウンドに向き合った時は、今までとは全く違う様々な課題を克服しなければならなかったわけですね。
沢口:そうですね、特に第1作目は本当に手探りで。
深田:サラウンドというのは、「やってみて初めて分かる」ということがたくさんあるし「聴いてみて初めて分かる」ものですから、体験しなければ何も分からないとも言えますね。
沢口:その初体験で失敗したりすると、嫌になってしまう恐れもありますが(笑い)
―― 作品をつくり終えるまでの時間や労力も、従来のステレオ作品の場合よりも相当かかりそうですね。
沢口:初期のラジオドラマの場合はそうですね。ミックスも当然そうですが、それよりも機材の搬入・セッティングが一苦労で、その調整後にミックス作業ですから、最初の頃は徹夜の連続でした。
このサラウンド制作の初期は、ステレオ制作の初期に似ている気がします。ステレオのラジオドラマ制作の初期は1960年代ですが、その頃は年に1作品しかできなかったんですね。ステレオの音素材が全くない時代ですから、例えば火山の爆発する音をつくるのに3日かかったという話もあります。50分間の作品をつくるのに3~4ヶ月を要しました。
サラウンドのラジオドラマ制作の初期、1987~1989年頃は、そのステレオの初期によく似ているなと感じました。
深田:私の場合は音楽のライブコンサートで、確かに時間はかかりましたが、その時のディレクターの方がわりと音の好きな人で、画にもこだわりがあり、つくりやすかったです。
例えば、ある曲を撮る時にカメラ1台を長回しして、ラストのクライマックスまでずーっとアップしていくという映画のような手法をとるんです。ご存じのようにドミンゴ氏は歌い上げる方ですので、こちらも気持ちがどんどん入って行って、画とシンクロするというか、がーっと歌を盛り上げていって、終わった瞬間に拍手がばーっと拡がるというのがものすごく心地よくて、「ああ、サラウンドでこういうことができるんだな」とそのとき強く感じましたね。
これがステレオだと拍手は当然前から出ますよね。それがサラウンドだと、画がズームでぐーっと引き込んでいったところに拍手がばーっと拡がる、これが非常に効果的でした。
ですから、初めてのサラウンド作品に恵まれたと言いますか、ディレクターの方も3-1サラウンドというものに一生懸命取り組まれていましたし、そういう意味では私の場合、初体験が良かったんです(笑い)
沢口:トラウマにならなくて良かったね(笑い)私の時は徹夜の連続で、格闘していましたが・・・
―― さて、お二方ともに現在まで多数のサラウンド作品を手掛けられておりますが、ご自身で「これがNo.1」という作品を挙げてください。
沢口:私は3-2ディスクリートでの作品のラジオドラマ「夢の柩」(1998年)ですね。なぜこの作品を気に入っているかと言うと、自分の思い描いたものをすべて盛り込めたからです。全体の音の仕上がりも良かったですし、深田さんに担当してもらった音楽も大変良かったですね。
深田:そう言えばあの時は徹夜しましたね(笑い)
沢口:それからハイビジョン作品で、これも時間と労力を要したんですが、「最後の弾丸」(1995年)も挙げたいですね。その当時は3-1方式が主流だったんですが、3-2方式のすごさはハイビジョン・サラウンドの私の1作目「8月の叫び」で分かっていましたので、その3-2方式でつくったハイビジョン作品の2作目になります。
これは日本とオーストラリアの太平洋戦争での兵士の物語で、戦闘シーンもありますがすが、例えば、ジャングルの中で狙撃兵同士がにらみ合うような心理描写でもサラウンドは効果的でしたし、雨の中のシーン、戦闘シーンなどストーリーの中でサラウンドが生きるシーンが多く、やりがいもありました。
雨の竹やぶの中で2人が対峙するというシーンがあって、その雨の音なんかは「3-2ってすごいな」と自分でも思いましたね(笑い)本当に雨の竹やぶの中にいる感じがするんですよ。そのシーンの中でも、狙撃兵のスコープのカットでは音をモノラルにして、次にまた雨がばーっと拡がるという対比も効果的でした。こういった、サラウンドの中にモノラルやステレオを挿入するというのは、映像作品の場合にはより効果を発揮しますね。
―― 深田様のNo.1作品は何でしょうか。
深田:私の場合は、自分的に全部気に入っていないので…。
沢口:それでは私から推薦しましょう。1997年8月の「ナタリーコール・キリテカナワ ザ・スーパーコンサート」ですね。
深田:あれはある意味思い出深い作品でした。放送は3-1でしたが、実際には3-2でつくったものです。
ナタリーコールさんとキリテカナワさんのジョイントというすごい企画で、当然やりがいはあったんですが、それぞれに音響監督が付いていて、その人達と打ち合わせしながら進めていかなければならないという難しさがありました。
またその頃は、サラウンドも本当に理解されておらず、最初はサラウンドで放送するという話がまとまり、私も準備を進めてから1週間ほど夏休みをとったんですが、出て来てみるとそれが「2chで放送します」という話になっていて、ディレクターのところに怒鳴り込みました(笑い)
聞いてみると、サラウンドで放送するとクレームが多いとか周囲の声で悪いうわさが立ったらしく、関係セクションを全部まわって予定通りサラウンドでいくことにひっくり返しました。
ミックスダウンではデジタル卓を使ったんですが、サラウンドは当然チャンネル数が多くまた激しい使い方をするので、CPUの処理が追い付かずフリーズしてしまうんですね。するとノイズが出てしまうので、そういうこととも闘いながらの作業でしたので、本当に大変でした。
―― お話しを伺っていますと、沢口様・深田様ともに、作品のイメージを具現する際に当時のハードが間に合っていなかったようですね。
深田:自分のやりたいことを実現するのは本当に大変ですよ。当時はサラウンドのリバーブもなかったですし。
沢口:その辺は、ある分野でパイオニアになろうとした人の言わば宿命ですから、大変なのは仕方ないことですね。それを承知の上でやるわけですから。それが嫌なら、機材なども含めて状況が落ち着いてからやればいいのですが、それではパイオニアとしての意味がありませんよね。
人との出会い
―― お二人ともAESをはじめとして国内外で幅広い活動をされて来たわけですが、その中で特にサラウンドについて影響を受けた、また何かのきっかけとなったような“人”との出会いがあればお願いします。
沢口:サラウンドに関しては、そういう出会いから長い付き合いが始まったというのはあります。
まず挙げるとすれば、1991年にAESとSMPTEのジョイント・カンファレンス「フューチャー・テレビジョン」というのがありまして、ここで私は「放送におけるサラウンド制作」というテーマで講演しました。その時のチェアマンがMacGill大学のウィスロー教授でした。
ウィスロー氏はサラウンドに大変興味を持っている人で、今もAESのテクニカル・コミッティーのチェアマンを務められていますが、彼との出会いは色々な意味で大きかったですね。
またその時のセッション・チェアマンがトム・ホルマン氏で、私はその時初めてホルマン氏に会ったんですが、AESで初めての講演で5分オーバーしてしまい、えらく怒られました(笑い)
あと、当時SHUREのボブ・シューレン氏もこの時が最初で、今はシューレン氏はウィスロー氏とともにAESの技術委員会チェアマンを務められています。
サラウンドで色々なところへ行っているうちに、そういう出会いがあって友人ができるというのも、AESなどに参加したときの大きな収穫だと思います。色々な分野の第一線の方々と情報交換ができますので。
深田:私が挙げるとすればまず沢口さんなのかもしれませんが(笑い)やはりウィスローさんですね。色々と面倒をみて頂きました。他にもたくさんいますが、とにかく会うとすぐ友達になってしまいますので。
私はずっと音楽をやって来て良かったと思うのは、音を聴けばその人の考えていることが大体分かるんですね。これはお互いにそうなので、音を聴いてその方向性が合っていれば、音を聴いた瞬間に友達になれるんです。ですから、ジョージ・マッセンバーグ氏にしてもマイケル・ビショップ氏にしても、AESのワークショップなどを一緒にやった時から友人になりました。そういう意味でも、AESというのはとても素晴らしい場ですよね。
沢口:それは当然、ハイレベルにいる人同士だからこそで、逆に言うと深田晃という人間がそういうレベルにある作品をつくっているということです。
面白い話として、1997年のInter BEEでサラウンドのシンポジウムをやったんですが、その時にレコード会社DMPのトム・ジャングというサラウンドを手掛けている人が参加してくれることになり、デモルームで素材チェックをしたんです。そこで深田さんの作品をかけた時に彼の血相が変わりました。「これは誰がつくったんだ!?」と。その後もジャング氏は、その深田さんの作品をじーっと聴いていました。
というのも、その時点ではそこまでの完成度のある作品は彼自身も聴いたことがなかったんですね。彼はまだサラウンドの実験をしているところで、ちゃんとしたサラウンドの音楽作品を聴いたのは初めてだったわけです。彼はものすごく興奮していました。
深田さんの作品の素晴らしい点として、広いスペースであろうが、普通の小さな部屋であろうが、ちゃんとしたスタジオの中であろうが、どんな環境で再生してもみんな一様に気に入ってくれるんです。聴く場所を選ばないバランスの良さと言いますか、これはすごいことだと思いますね。
深田:苦労しているんです(笑い)。
私とジャング氏とはその場で友人になったわけですが、その年のAESではあるセッションでともに同じパネリストとして参加しました。その後、1998年のAESサンフランシスコでサラウンドをテーマにしたワークショップがあり、彼から「推薦するからお前も出ないか」という誘いがあって私も参加しました。
沢口:また、ちょうどそのInter BEEのときに同席していたのが、ドルビー社のダグラス・グリーンフィールドという方で、この人はアメリカ・ハリウッドでサラウンドの面倒を見ている方ですが、彼も深田さんのサウンドを聴いてファンになった1人です。それ以来、事あるごとに来日してくれたり、色々な所で会って食事したりしています。
これらの方々はみんなそれぞれ共通の友人ですので、その友人の紹介からまた友人が増えて、一緒に仕事をしたり情報交換していく中で、必ず今まで知らなかった世界が見えて来ます。それを自分の仕事の中で生かすことは当然できるでしょうし、とにかく一度飛び出してみる、参加してみる価値は絶対にありますので、興味のある方はどんどんAESに加わって頂きたいですね。
―― あと、昨年の放送技術セミナーで沢口様からご紹介のあった、北極でサラウンド収録をしてドキュメンタリー作品をつくったすごいサラウンドマン、オーストリア放送協会のフロリアン氏との出会いをお聞かせください。
沢口:彼を初めて知ったのは、1999年のIBCアムステルダムでのサラウンドのカンファレンスです。その時に彼自身は来なかったんですが、当時SSLのマーク・ヤング氏が「面白い作品がある」と持ち込んだデモ、それがフロリアン氏のつくった北極のサラウンド・ドキュメンタリーだったんですが、それを聴いた時に私は鳥肌が立ちましたね。ちょうど先ほど話のあった、トム・ジャング氏が深田さんの作品を聴いて「これは誰がつくったんだ!」と言ったのと同じ感覚です。これは本当にすごい作品です。
オーストリア放送協会にこんなすごい人がいるとこの時初めて知りましたので、是非コンタクトしたいと思い、マーク・ヤング氏にフロリアン氏のメールアドレスを教えてもらって、「君の音をIBCで聴いた。素晴らしかった。是非おめでとうを言いたい。」とメールを打ったのが最初です。
このIBCやAESという世界の場というのは、世界のトップの人がトップのものを持ち寄る場ですから、そういう意味でも参加する価値はありますね。
―― ところで、日本国内でのサラウンドに関した人との出会いというのはいかがでしょうか。
深田:国内では、JVCの高田さんや元コロムビアの高橋さんなど、やはりサラウンドをやっていると、同じくサラウンドに取り組まれている人に目が行きますから、そういう人との交流もどんどん増えていますね。
沢口:他には、今のAES日本支部長であるビクターの鈴木さん、また作曲家の冨田先生もずっとサラウンドに取り組まれている1人です。
あと身近なところで言うと、SACDマルチでがんばっているオノ・セイゲンですね。彼は今やサラウンドの信者となって、布教活動も精力的にやっています(笑い)
深田:彼とは私も音楽で色々と一緒に仕事をしていますが、彼は最初は、サラウンドに全然興味がなかったんですよ。それでどんどん聴かせて行くうちに、本人も面白いと思ったんでしょう。今やサラウンド、マルチチャンネルにしか興味がないと公言しています。何か洗脳してしまったみたいで、悪い方に足を踏み入れさせたかなと(笑い)
沢口:あと、放送で言うとテレビ朝日映像の井上さん、WOWOWの中村さん、ポスプロで言うとソニーPCLの染谷さん、彼等もそれぞれに、サラウンドに積極的に取り組んでいます。
深田:この間、名古屋で地上デジタルの会合がありまして、そこでサラウンドの解説をということで講師として行ったんですよ。スピーカのセッティングの仕方から制作の解説、作品のデモまで全部やったんですが、若い人がたくさんいまして、やはり地上デジタルになればサラウンドができるという期待を皆さん持たれていましたね。皆、サラウンドをやりたいということで、すごい熱気がありました。その時に、「こういう人達が次のサラウンドをつくって行くんだな」と確信しました。今後色々な放送局で、サラウンド作品がどんどんつくられていくことを大いに期待しています。
Fukada-Tree(フカダ・ツリー)
―― さて、深田様と言いますと、お名前を冠したサラウンドのマイキング手法“Fukada-Tree”がつとに有名ですが、これが生み出されるまでの経緯などをお聞かせください。
深田:これは私の音楽のサラウンド収音のベースになっているんですが、これを1997年のAESで発表する時に沢口さんから「名前を付けた方がいいよ」とアドバイスされまして、Fukada-Treeと名付けられました。
ただこれも、色々なことを試してみた結果なんですよ。アコースティック音楽の生音を録る時にやはりうまく行かないことが多くて、じゃあどうしたらいいのかということで、例えば色々な指向性のマイクを使ってみるとか、とにかく考えられることはすべてやってみました。理論ではなく、日常の仕事の中であれこれやってみた結果、感覚的に「こういうふうにやればうまく行く」というのが一つの形になった、それがFukada-Treeというわけです。ただ、これが絶対ということではありません。こういうふうにすればある程度矛盾しない形で音が録れるという一つの提案とお考えください。
これを初めて人の前で発表したのは1997年のAES東京でしたが、このときはまだ方式の名前も付けておらず、その年のAESニューヨークで発表する時に沢口さんのアドバイスがあって、ここで初めて“Fukada-Tree”となりました。私自身が名付けたのではなくて、名付け親は沢口さんです(笑い)
沢口:このネーミングは、すでにあったマイキング方式の“Decca-Tree(デッカ・ツリー)”をヒントにしました。Decca-Treeは、イギリスのDeccaというクラシック専門のレーベルが、自分達で開発したマイキング方式に名前を付けたものです。
ステレオのマイキングではすでに色々な方式が世の中に発表されていますが、サラウンドでも名前を付けた方が覚えられやすいですし、またアピールもできると考えて、深田さんが開発した方式ですから“Fukada-Tree”がいいのではないか、と本人に提案したわけです。
―― AESニューヨークで初めて世界に発表されたわけですが、その時の反響はいかがだったでしょうか。
深田:その時は特に反響というものはなくて、「ああ、そういうやり方でやっているんだな」という感じでしたね。
ただその後、Fukada-Treeを学術的に研究した発表をする方が出てきました。これは決して悪いことではなくて、今までになかった方式を皆さんが考察するに値するものだったというところですか。
沢口:これは嬉しかったですね。そういう世界の場で、日本人が開発した一つの方式が議論されているわけですから。その後、サラウンドのマイキング手法に名前を付けたものが色々と出てくるようになりました。INA-5やIRT-CROSSといったものですね。おそらく、サラウンドのマイキングを一つの形として提示したのは、このFukada-Treeが初だったと思います。
深田:Fukada-Treeのベースにあるのは「拡がり感を録る」ということです。前方の3つのマイク、L, C, Rのそれぞれの間隔を批判する方もいるんですが、これは定位が理論上では良くないというためです。しかし、そういう人も実際に録った音を聴くと、だまってしまうという…(笑い)私は音楽をつくる時、その何を伝えるかというのを常に考えていますので、仮に理論上では部分部分の定位が悪かったとしても、トータルでの音楽のイメージがうまく表現できるのであれば、私はその方が望ましいと思っています。
サラウンドの基本デザインパターン
―― 沢口様はずっとサラウンドに取り組んで来られて、そのデザインの基本パターンというものを世の中に提示されています。これはサラウンド制作者にとっての指針となっていますが、こういう形にまとまるまでを振り返って頂ければと思います。
沢口:私はラジオドラマ、もしくはハイビジョンなどのドラマを手掛けて来ました。我々の作業というのは、セリフ・音楽・効果音と色々ある音素材をいかにつくり込んで行くか、そういうサウンド・デザインが勝負になります。音楽の場合はマイキングが重要なポイントになりますが、その辺のアプローチは違うところですね。
それで、自分がずっとサラウンド作品をつくって来た中で、やはり色々と試行錯誤があったわけですが、きっとサラウンドの音のスケッチの仕方に何か基本となるものがあるんじゃないか、と思ったわけです。
そこで、自分が今までやってきたことや他の方の例を振り返って分析してみたところ、サラウンドのサウンド・デザインは大きく分けて6つに分類できるというところに行き着きました。この6つの基本パターンは主にドラマ制作においてのもので、音楽の場合には大きく3つに分けられると思います。
深田:この基本パターンというのはまさに的を得たもので、音楽の場合でもこれをベースにすることですべて表現できます。特にポップ・ミュージックをつくる時は、ドラマ制作的な発想でできると思います。
作品を頭の中でイメージする時、ここはどう表現しようかと考える時に、こういうベーシックなイメージがあると、ここはこの手法を使ってというように音を設計しやすいんです。やはりラフでもいいから最初に音の設計図がないと、現場で全部やっていたら、それこそまとまりがつかなくなります。その最初の設計図を描くための、大変便利なツールですね。
沢口:サラウンドに向き合う時の取っ掛かりとしては、こういうものがあると役立つと思います。いわゆるその設計図が描けなければ、その先へ進めないわけですから、これを参考にしてもらえばそこで止まってしまうということはまずないでしょう。
ただこれも、この6つと3つで決まりということではなくて、そこから発展して10パターンなり15パターンなりとなってくれば、それは大いに良いことです。これからサラウンド作品をつくられる方には、この基本でザインパターンやFukada-Treeなどを一つの参考として頂いて、そこから自分なりに応用して、是非ご自分のサラウンドというものを追求して頂きたいですね。
最後に―読者へのメッセージ
―― それでは最後に、これまでのサラウンドへの取り組みを通して感じられたことやサラウンドに対しての想い、また読者へのメッセージなどをお願いします。
沢口:私の場合は、ずっと音の表現というものをやって来た中で、2ch゛は表現しきれないという壁を乗り越えるための一つの方策として、サラウンドに辿り着いたというのが現状です。その結果はとても素晴らしいもので、自分の表現がより容易にできるツールとなっています。
このきっかけは、やはり興味を持つということですね。そして疑問に思うということ。どうしてこうなるんだろう、他には何かないんだろうか、ここはどうなっているんだろうか、なぜあの人はこうやっているんだろう、というように、疑問を持つことが大事です。その上で、自分なりに勉強して工夫するということ。Fukada-Treeはその良い例だと思います。
そして何か一つの形になったのであれば、それを自分だけのものとせず世の中に発信していく、できれば国内だけでなくワールドワイドに、というように、どんどん自分の世界を広げていって頂きたいですね。
それはすべて「半歩踏み出す勇気」があればできます。“一歩”でなく“半歩”でいいんです。これはサラウンドに限らず何においても共通だと思うんです。AES等の場に行って分かったことは、世の中というのは、そういう半歩踏み出す勇気を持って人とは違ったことをやれば、それなりのふさわしい評価をしてくれるということです。それがまた次のステップへの元気の源となるわけです。
―― 沢口様のお話はいつも含蓄に富んでいて、何か世の理を説く高僧と言いますか、伝導師のように私は感じてしまうのですが(笑い)
深田:いわゆる伝道師の姿が目に浮かびますね(笑い)
沢口:まあ、私も色々と苦労して来ましたから(笑い)
サラウンドに関しても最初の頃は本当に大変でしたが、特にここ2~3年で羽ばたいてくれそうな気運になって来ましたから、本当に嬉しく思っています。
深田:私の方で言うと、モノをつくる人のスタートには、何か感動があったと思うんですよ。その時の感動をもう一度という気持ちが、持続させてくれているような気がします。
最近サラウンドの仕事で、単にダウンミックスするのではなくサラウンドとステレオを別々につくることがあるんです。その時は最初にステレオをつくります。なぜかと言うと、先に5.1chをつくってしまうとその後ステレオをつくる時につまらなく感じてしまってつくれなくなってしまうんです。
例えば、まず音楽を5曲ステレオミックスでつくります。終わりました。そして1週間後に5.1chをつくります。これは最初のステレオミックスのデータがあるのでそれほど時間は取られません。そして5.1chをつくって作曲家の方や関係者に聴いてもらうと、皆すごく感動するんです。「ステレオでも良いと思ったけど、サラウンドだとこんなにも表現力があるのか」と。これは結構大事で、順番を間違えると「なんだ、ステレオはちょっとつまらないんじゃないの?」となる可能性が高いです(笑い)
やはりこういう仕事をやっていると、何か人に感銘を残したいと思うんです。どこか人の心が動いてくれるように何とかしたい、そのツールとして、サラウンドは非常に素晴らしいものだと思っています。自分のつくった作品が誰かに感動を与えることができれば、それが一番嬉しいですね。
メッセージとしては、これまでにも再三出てきていますが、まず興味を持つということですね。どうやって興味を持つかと言うと、聴いてみるしかない。例えば、沢口さんからサラウンドの話を聞きました。じゃあ、サラウンドとはどういうものか、DVDを買ってしばらく聴いてみよう、そして「ああ、なるほど」と思えればきっかけになるかもしれません。
例えば今、私は自分でやっているステレオ録音のマスターは全部ハイビット・ハイサンプリング(24bit・96kHz)なんですよ。実際の放送ではもちろん違うんですが、私以外はそんなこと誰もやっていないと思います。なぜかと言うと、やはりそちらの方が自分で良いと思うからです。それで、アシスタントの若い人に聴かせると「やっぱりこっちの方が良いですね」となるわけです。これも聴いてみて、初めて分かることですよね。これと同じことがサラウンドにも言えるわけです。
沢口:そう、まず「聴いてみよう」と思うきっかけを我々はつくっているんです。ですから実際の作品も、ステレオでの放送が前提であっても、あえて最初はサラウンドでつくったりするわけです。それは当然、今後のためのノウハウの蓄積になりますし、その作品を何かの機会で聴いた人の中で興味を持つ人がいればなお結構ですし。
深田:現業の中でも、私の場合はステレオ収録の時でも必ずサラウンドのマイクを立てています。若い人が「このマイクは何ですか?」と聞いてきますが、「これはサラウンドミックスするために立てているんだよ。あとで時間があればやってみなさい。」と答えます。素材があればやってみることはできますので、そういうチャンスを与えてあげているんです。また自分自身でも、いつサラウンドの話が来てもいいように、すべてサラウンドの準備をしています。ですから私のところに来れば、あとはもう「やるか、やらないか」ですね。他にはそう、沢口さんと飲むことかな(笑い)
沢口:いつでもどうぞ(笑い)
今はメールという便利なものがありますから、私でも深田さんでも連絡をくれれば、疑問があればお答えします。私がフロリアン氏に初めてコンタクトしたのもメールでしたし、そういう「半歩踏み出す」行動というのは、やろうと思えばできるわけですから。是非サラウンドを通じて友人になりましょう(笑い)
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「サラウンド入門」は実践的な解説書です
By Mick Sawaguchi 沢口真生
サラウンド・ソフトに関して国内外を問わず、実際のサラウンド・ソフト制作から普及・啓蒙活動まで多岐にわたり尽力された功績を讃え、AESより“AES Fellowship Award”が沢口真生氏(2002年)、深田晃氏(2001年)にそれぞれ授与された。
AESという世界中のオーディオに関わるスペシャリストにより構成される団体において、その功績が表彰されたこと自体が特筆すべきことであり、しかもサラウンド・ソフトに関して同じ放送局(NHK)のエンジニアが受賞されたことはまさに快挙と言える。このことは同時に、サラウンドという素晴らしい音声表現手法の進展において、日本が世界をリードしているとも言え、沢口氏・深田氏の両名は世界に誇るべき日本のオーディオ・エンジニアであることを裏付けるものである。
ここでは、AESおよびサラウンドに関して、お二人がこれまでどのような取り組みをされて来たかを対談の形で振り返って頂き、その軌跡を誌面に残すと同時に、この記事をお読みになった方の中からお二人に続く“開拓者”が現出することを願うものである。
AESとは?
―― まずは遅ればせながら、AES Fellowship Awardの受賞、おめでとうございます。それでは最初に、AESという団体についてご存じない方もいるかと思いますので、AESの沿革・活動内容等を沢口様からご紹介頂けますでしょうか。
沢口:AES(エーイーエス)というのは、正式には“Audio Engineering Society”という団体でして、その頭文字を取ってAESと呼んでいます。
AESのメンバーとしては、大学の研究者や教授、メーカーの設計者、われわれのようなミキシングエンジニア、音楽家、作曲家、映画の音響関係者、SRの方等々、とにかく分野を問わず“音”に関わるプロフェッショナルの方々が世界中から集まっているという、非常にユニークな団体です。
AESは1947年に設立されまして、現在本部はニューヨークにあります。世界において41ヶ国・66支部まで広がって来ており、現在は東欧圏や南アメリカが加わってもう少し増えています。全メンバーは22,000名を数え、うち日本人メンバーは約400名です。
AESの活動目的ですが、キーワードは“アート”、“サイエンス”、“テクノロジー”、つまり音に関する芸術的・科学的・技術的観点をもって、参加メンバーが色々な角度から研究し情報交換することによって、音の世界の発展に寄与するというものです。
大きな集まりとしては、年に2回のコンベンションを開催し、機器展示、ワークショップ、セミナー等を行います。これは春にヨーロッパ、秋にアメリカで開催され、特にアメリカは広いものですから西海岸と東海岸で1年交代で開催します。さらに西海岸でも、ロサンゼルスとサンフランシスコが1年交代という形になっています。
これ以外にも、世界各地でコンベンションやカンファレンスといったものが、各支部独自に行われています。日本では隔年で“AES東京コンベンション”を開催しており、今年は7月7日(月)~9日(水)、東京九段の科学技術館で開催されました。
特にヨーロッパとアメリカの2大コンベンションでの、最新技術や研究発表は、その後の音のトレンドに影響しますので音に関心のある方々は、参加する価値が十二分にあると言えます。
AES Fellowship Award受賞について
―― さて、これからお二人の開拓の軌跡を追って行きたいと思います。まず“AES Fellowship Award”についてですが、今回の受賞理由をお聞かせください。
深田:賞状に述べられているものを言うと「レコーディングと放送の技術に対して著しい貢献をしました」ということですが、AESでの論文発表などの活動としてはサラウンドに関するものしかやっておりませんので、要は「サラウンド音楽制作における貢献」ということでしょうね。賞状にはサラウンドとは入っておりませんが(笑い)
沢口:深田さんは特に音楽のサラウンド録音に関して先駆的に取り組んで来て、“FUKADA-Tree”というマイキング手法も世に先駆けてAESで発表したり、音楽のサラウンド録音についての発表やワークショップ、セミナーなどをAESで行って来ましたので、その貢献が表彰された理由だと思います。
―― 沢口様はかなり前からサラウンドに関する様々な取り組みをされて来たと思いますが、沢口様の受賞もサラウンドに関するものなのでしょうか。
沢口:私の場合も、サラウンドという文字は賞状には書かれていませんが、「放送界で永きにわたりサラウンドについて様々な貢献をして来たことに対して」と受けとめています。
私は1980年半ばからサラウンドのソフト開発を行って来て、AESでもサラウンドに関する発表やワークショップ、セミナーを行ったり論文チェアマンを務めたりして来ましたので、そういった諸々の活動を評価されたものだと思っています。
―― この受賞というのは、世界において認められたということですから非常に素晴らしいことなのですが、受賞の報せを耳にした時の率直な感想をお聞かせください。
深田:もちろん嬉しいことなのですが、何か突然表彰されたという感じでとまどったと言いますか、これをどう受けとめたらいいものかと思いました。
このAESのAwardには色々な種類がありまして、それぞれのAwardの中でさらにゴールドメダル、シルバーメダル、ブロンズメダルと分けられており、私はシルバーメダルで推薦されたと聞いています。これを受賞するためには、まずAESのFellowになっていて、そこからさらに5年を経ていないと受賞資格はないということです。
―― 沢口様は昨年受賞されて、Inter BEE 2002でのサラウンドのシンポジウム司会などのため幕張メッセに詰めている最中に表彰状が届くというハプニングがあったそうですが、賞状を手にした時はいかがでしたか。
沢口:素直に個人賞というのは嬉しいですね。ましてや、このAwardというのは自分が力を注いで来たことが世界で認められたということですから、嬉しいというのが率直な感想です。
―― AES Fellowship Awardで、サラウンド・ソフト関連で他に受賞された方はいらっしゃるのでしょうか。
深田:最近では、AES日本支部長を務められた日本ビクターの鈴木さん等が受賞されています。
沢口:アメリカのトム・ホルマン氏が受賞したかと思いますが、彼もソフトではなくテクニカルな面での受賞だと思います。
このAESにはかなりアカデミックな傾向がありますので、実際のソフト制作という分野にはあまり陽が当たらないんですね。どうしても理論や測定法など学術的な研究といった方に注目が集まってしまいます。
―― そういう意味では、純ソフトで、しかもサラウンドに関して、世界に先駆けて日本の同じ放送局の方が2年連続で受賞されたというのは、まさに快挙というほかありませんね。
ゴールデンコンビ・2人の出会い
―― 沢口様と深田様は、特にサラウンドに関してのゴールデンコンビであるとお見受けしておりますが、お二人の出会いからの経緯などをお聞かせください。
深田:私は1991年にいわゆるキャリア採用という形で現在に至っており、その前はレコード会社にいました。沢口さんがどのくらい前からサラウンドに取り組まれているかはよく知らないのですが、前の会社にいた当時はドルビー・サラウンドというものがありました。当然ドルビーサラウンドでライブ録音をやっている人もいましたが、私自身は携わっていませんでした。
当時は、スタジオ設備も4ch再生ができる環境にはなっていましたが、ちょうど4chブームが終わった後で、後ろのスピーカは使わない、もしくはフタをしてしまっている、そういう時代でした。
そしてNHKに身を置くことになったわけですが、その当時NHKでは3-1サラウンドやドルビー・サラウンドを実験的に行っていて、私も少なからず興味もあり、また実際にサラウンド作品をいくつかつくってもいました。
番組としては当時、NHKホールで演歌中心の「歌謡コンサート」という生番組を毎週担当していまして、3-1サラウンドとドルビー・サラウンドを同時につくって生放送するというものでした。これはそれまでの先輩方の努力もあってできていたことなのですが、よく考えてみるとすごく大変なことをいとも簡単にやっていたわけですね。
沢口さんとは当時「音声」という同じ職場におりましたが、担当するジャンルも違いましたので特に話をする機会もあまりありませんでした。ただ、沢口さんがサラウンドに熱心に取り組まれていることは当然知っていました。そんな時に沢口さんから「音楽でこういうスゴイことをやっているんだから、AESという世界の場で発表してみないか」と声を掛けられたのが最初と言えば最初ですね。
沢口:第100回のAESコンベンションが1996年、コペンハーゲンで行われたのですが、その時、普通は見かけない「放送現業部門」という論文発表のジャンルがあったんですね。私自身はそこでHD-TV 3-2制作を発表するつもりでしたが、先ほど深田さんが言ったようにNHKでも色々なことに取り組んでいましたし、世界にアピールするチャンスだと思い、深田さんに声を掛けたわけです。
深田:この最初の時は苦労しました(笑い)いきなり発表しろと言われても、何をどうすればいいのか分からないわけですから。
沢口:でも、私も海外での発表というのは、その時が2度目だったんですよ。私は、日本人もそういう経験をどんどん積むべきだと思っています。自分達がやっていることを業務の中だけで終わらせないで、世の中の人にアピールして行く。それによって自分の、また会社の存在価値も上がり、自分にとっても勉強になるわけですから。
ただ、AESでの発表時間は15分なので、その15分という限られた時間の中でセールスポイントを述べるというのは結構大変なんですよ。
深田:プレゼンと言うと、その頃はまだOHPでしたね。
沢口:そう、OHPかスライドを用意するという…。今のようにパソコンでプレゼンとかやれない時代ですからね。
深田:でも1996年、ほんの数年前の話なんですがね。
―― このAESに関すること以外には、例えば一緒に作品をつくられたりしたことはありますか。
深田:それはもちろんあります。
沢口:例えば私のラジオドラマで、深田さんにドラマ音楽を担当してもらったりとか。でも普段の仕事で一緒に行動するというのはほとんどありません。
―― すると、お二人が一緒に活動するというのは、AESにおけるものということですね。
沢口:私達は自称「サラウンド・クルセイダース」と言っていますが(笑い)それ以降、2人で一緒にサラウンド・ソフトの発表やセミナーをやって来ましたので、海外の人にもペアで覚えられていることが多いです。「お前達はいつも一緒にいるけど、何か特別な関係じゃないか?」と言われたりもしますが、決してそういうことはありませんので念のため(笑い)
サラウンドとの出会い
―― それではサラウンド・クルセイダースのお二人にあらためてお聞きしますが(笑い)サラウンドというものに初めて出会った頃の、サラウンドに対する印象などをお願いします。
沢口:私は1985年頃ですね。ずっとラジオドラマの制作をして来たわけですが、ラジオドラマの世界にあって、どうしても2chでは表現しきれない、2chでは限界だという想いが自分の中にあったんですね。
そこで「何かないものか」と探っていたところに、映画でドルビー・ステレオをやっているという話を聞いて、勉強を始めました。日本では映画でドルビー・ステレオを手掛けている瀬川さんという方がいまして、その瀬川さんにお話を聞きに伺ったり、ドルビー日本支社からアメリカのドルビー本社を紹介して頂いて実際にどうやっているのかを見に行ったりしました。
そこで初めて触れたときは、まさに「カルチャーショック」でしたね。実際にサラウンド・ミックスをやっている映画のスタジオをたくさん見せてもらったり、ちょうどその頃ジョージ・ルーカス氏のスカイ・ウォーカー・ランチができたところで当時の技術担当トム スコットに話を聞いたりしました。アメリカのポストプロダクションではマルチトラック・レコーダが当たり前で、片や日本ではMA-VTRという2インチのテープにオーディオが4トラック入るという状況ですから、機材的な面でもショックを受けました。
その後NHKでは1987年にCD-809スタジオを改修することになり、その時に是非マルチチャンネルを出力できるコンソールを入れてほしいということと、当時3-1サラウンドをやっていましたので3-1のモニタリング環境を整えたいという要望を出し、まわりの99%の反対を押し切って(笑い)マルチチャンネルのポスプロ設備が出来上がったわけです。
ただ、すべてが初めてのことでしたからかなり大変でした。そのコンソールの選定のときに、Neveにもマルチチャンネル対応コンソールのオファーをしたんですが、4chで苦い経験をしていたこともあり断られてしまいました。そこでタムラ製作所の協力を得て、新規にコンソールを開発しました。
他にも、例えばスタジオの音響設計も全く手探りの状態でしたから、色々と失敗もしましたし局内の関連セクションの中にもサラウンドに造詣の深い方もいませんでしたし、サラウンドに取り組み始めた頃は本当に大変でした。
それでもとにかくスタジオができましたので、それでは作品をつくりましょうということでつくったのが、ラジオドラマ「シュナの旅」という作品です。これは今をときめく宮崎駿氏原作のアドベンチャー物で、アナログのドルビー・サラウンドでつくったものです。実際の放送では、ドルビー・サラウンドを2chマトリクスで送出して、普通の受信機ではステレオで、ドルビーのデコーダをお持ちの方はサラウンドで聴けるという形でした。
その当時、関西の放送局の方々がサラウンドに熱心に取り組んでおられて、1988~1989年頃の「関西のサラウンドパワー」といったものはスゴイものがありました。本放送とは別の実験的なものですが、すでにその時スポーツ中継の可能性も探っていました。アメリカでは、NBCがスーパーボウルを初めてサラウンドで放送したというのがありましたね。
深田:沢口さんの時は、放送界においてサラウンドというのは全く話にも出て来ない頃ですから、カルチャーショック的なものがあったんだと思います。
私はレコード会社にいた頃からドルビー・サラウンドというのが身近にありましたので、特に衝撃を受けたというのはないのですが、NHKに来て初めてサラウンド作品をつくる段になった時「サラウンドで何ができるのか」を考えましたね。
私はずっと音楽をやって来たわけですが、つくる目的としては「音楽で何を伝えるか」ですから、ステレオのL, Rにセンターチャンネルと後ろのサラウンドが加わった環境の中で、音楽においてステレオと違った何を伝えることができるんだろう、ということです。それが明確にならなければ、何のためにつくるのか分からなくなりますので。
現在の5.1chもそうですが、何でもかんでも5.1chにすればいいわけではなくて、「5.1chの方がより良い作品になる」という必然性がなければいけないと思います。
初めてのサラウンド作品は、1992年にNHKホールでつくった「プラシド・ドミンゴ コンサート」です。これはハイビジョン・3-1サラウンドでした。NHK入局の1年後につくっていたんですね。
―― お二人ともに、サラウンド第1作をつくられた時はさぞ大変だったことと思います。その時の状況を振り返ってお聞かせください。
沢口:私はそのラジオドラマ制作においてTD的に携わったんですが、やはり第1作ということで感慨深かったですね。
当時のドルビー・マトリクスというのはなかなか理屈通りに行かないところがあって、3-1の出力がそのまま出るわけではなくて、入口と出口で音が変わってしまうんです。それをどうやってコントロールするかというのが、実際にやってみて初めて分かった大変な部分ですね。定位も変わるし音色も変わるし、仕上げるまでが大変でした。
―― 現在の5.1chと比べると、その辺はどうなんでしょうか。
沢口:それは今のディスクリート方式の方がはるかに楽ですよ。サラウンドでデザインした音が、思った通りのところに行きますから。
深田:私の第1作の時は、ハイビジョンの実験放送が始まっていてディスクリート方式でしたから、沢口さんのおっしゃったような苦労はありませんでしたが、今の5.1chでもまず議論になる「センターチャンネルをどう使うか」というのがまず課題としてありましたね。センターの音とステレオの左右の音の音色が違うので、それをどうするかが大変でした。
あと、通常のレコーディングでもそうですが、やはり何か工夫をしないとつまらないじゃないですか。例えば床に置くバウンダリーマイクがあります、床面から数ミリのところは直接音も反射音も同じだから音に色がつかない、ならばやってみようと、スタジオの床に普通のマイクを近付けて録ってみたりとか、そういうことはかなりやりましたね。これはサラウンドでも同じことで、結果として良くなければ意味がないので、そのためには色々なことをやってみる必要があると思います。
沢口:特にマイキングなどは、音楽の場合は大変でしょうね。私の場合はポストプロダクションですから、セリフ・音楽・効果音など別々の素材をどうデザインするかがポイントになります。そこで先ほど言ったように、ドルビーのマトリクスが思うように行かないのが大変だったというわけです。
深田:ただ、レコード会社にいた時からマイキングはアメリカ方式だったんですよ。テラークの3本マイクであるとか、デッカ・ツリーという方式で、ステレオ収録なんですがマイクは3本使っていました。ですから、3本のマイクを使うということ自体は全く違和感はなく、その後のバランスの取り方が難しかったんです。
―― やはり初めてサラウンドに向き合った時は、今までとは全く違う様々な課題を克服しなければならなかったわけですね。
沢口:そうですね、特に第1作目は本当に手探りで。
深田:サラウンドというのは、「やってみて初めて分かる」ということがたくさんあるし「聴いてみて初めて分かる」ものですから、体験しなければ何も分からないとも言えますね。
沢口:その初体験で失敗したりすると、嫌になってしまう恐れもありますが(笑い)
―― 作品をつくり終えるまでの時間や労力も、従来のステレオ作品の場合よりも相当かかりそうですね。
沢口:初期のラジオドラマの場合はそうですね。ミックスも当然そうですが、それよりも機材の搬入・セッティングが一苦労で、その調整後にミックス作業ですから、最初の頃は徹夜の連続でした。
このサラウンド制作の初期は、ステレオ制作の初期に似ている気がします。ステレオのラジオドラマ制作の初期は1960年代ですが、その頃は年に1作品しかできなかったんですね。ステレオの音素材が全くない時代ですから、例えば火山の爆発する音をつくるのに3日かかったという話もあります。50分間の作品をつくるのに3~4ヶ月を要しました。
サラウンドのラジオドラマ制作の初期、1987~1989年頃は、そのステレオの初期によく似ているなと感じました。
深田:私の場合は音楽のライブコンサートで、確かに時間はかかりましたが、その時のディレクターの方がわりと音の好きな人で、画にもこだわりがあり、つくりやすかったです。
例えば、ある曲を撮る時にカメラ1台を長回しして、ラストのクライマックスまでずーっとアップしていくという映画のような手法をとるんです。ご存じのようにドミンゴ氏は歌い上げる方ですので、こちらも気持ちがどんどん入って行って、画とシンクロするというか、がーっと歌を盛り上げていって、終わった瞬間に拍手がばーっと拡がるというのがものすごく心地よくて、「ああ、サラウンドでこういうことができるんだな」とそのとき強く感じましたね。
これがステレオだと拍手は当然前から出ますよね。それがサラウンドだと、画がズームでぐーっと引き込んでいったところに拍手がばーっと拡がる、これが非常に効果的でした。
ですから、初めてのサラウンド作品に恵まれたと言いますか、ディレクターの方も3-1サラウンドというものに一生懸命取り組まれていましたし、そういう意味では私の場合、初体験が良かったんです(笑い)
沢口:トラウマにならなくて良かったね(笑い)私の時は徹夜の連続で、格闘していましたが・・・
―― さて、お二方ともに現在まで多数のサラウンド作品を手掛けられておりますが、ご自身で「これがNo.1」という作品を挙げてください。
沢口:私は3-2ディスクリートでの作品のラジオドラマ「夢の柩」(1998年)ですね。なぜこの作品を気に入っているかと言うと、自分の思い描いたものをすべて盛り込めたからです。全体の音の仕上がりも良かったですし、深田さんに担当してもらった音楽も大変良かったですね。
深田:そう言えばあの時は徹夜しましたね(笑い)
沢口:それからハイビジョン作品で、これも時間と労力を要したんですが、「最後の弾丸」(1995年)も挙げたいですね。その当時は3-1方式が主流だったんですが、3-2方式のすごさはハイビジョン・サラウンドの私の1作目「8月の叫び」で分かっていましたので、その3-2方式でつくったハイビジョン作品の2作目になります。
これは日本とオーストラリアの太平洋戦争での兵士の物語で、戦闘シーンもありますがすが、例えば、ジャングルの中で狙撃兵同士がにらみ合うような心理描写でもサラウンドは効果的でしたし、雨の中のシーン、戦闘シーンなどストーリーの中でサラウンドが生きるシーンが多く、やりがいもありました。
雨の竹やぶの中で2人が対峙するというシーンがあって、その雨の音なんかは「3-2ってすごいな」と自分でも思いましたね(笑い)本当に雨の竹やぶの中にいる感じがするんですよ。そのシーンの中でも、狙撃兵のスコープのカットでは音をモノラルにして、次にまた雨がばーっと拡がるという対比も効果的でした。こういった、サラウンドの中にモノラルやステレオを挿入するというのは、映像作品の場合にはより効果を発揮しますね。
―― 深田様のNo.1作品は何でしょうか。
深田:私の場合は、自分的に全部気に入っていないので…。
沢口:それでは私から推薦しましょう。1997年8月の「ナタリーコール・キリテカナワ ザ・スーパーコンサート」ですね。
深田:あれはある意味思い出深い作品でした。放送は3-1でしたが、実際には3-2でつくったものです。
ナタリーコールさんとキリテカナワさんのジョイントというすごい企画で、当然やりがいはあったんですが、それぞれに音響監督が付いていて、その人達と打ち合わせしながら進めていかなければならないという難しさがありました。
またその頃は、サラウンドも本当に理解されておらず、最初はサラウンドで放送するという話がまとまり、私も準備を進めてから1週間ほど夏休みをとったんですが、出て来てみるとそれが「2chで放送します」という話になっていて、ディレクターのところに怒鳴り込みました(笑い)
聞いてみると、サラウンドで放送するとクレームが多いとか周囲の声で悪いうわさが立ったらしく、関係セクションを全部まわって予定通りサラウンドでいくことにひっくり返しました。
ミックスダウンではデジタル卓を使ったんですが、サラウンドは当然チャンネル数が多くまた激しい使い方をするので、CPUの処理が追い付かずフリーズしてしまうんですね。するとノイズが出てしまうので、そういうこととも闘いながらの作業でしたので、本当に大変でした。
―― お話しを伺っていますと、沢口様・深田様ともに、作品のイメージを具現する際に当時のハードが間に合っていなかったようですね。
深田:自分のやりたいことを実現するのは本当に大変ですよ。当時はサラウンドのリバーブもなかったですし。
沢口:その辺は、ある分野でパイオニアになろうとした人の言わば宿命ですから、大変なのは仕方ないことですね。それを承知の上でやるわけですから。それが嫌なら、機材なども含めて状況が落ち着いてからやればいいのですが、それではパイオニアとしての意味がありませんよね。
人との出会い
―― お二人ともAESをはじめとして国内外で幅広い活動をされて来たわけですが、その中で特にサラウンドについて影響を受けた、また何かのきっかけとなったような“人”との出会いがあればお願いします。
沢口:サラウンドに関しては、そういう出会いから長い付き合いが始まったというのはあります。
まず挙げるとすれば、1991年にAESとSMPTEのジョイント・カンファレンス「フューチャー・テレビジョン」というのがありまして、ここで私は「放送におけるサラウンド制作」というテーマで講演しました。その時のチェアマンがMacGill大学のウィスロー教授でした。
ウィスロー氏はサラウンドに大変興味を持っている人で、今もAESのテクニカル・コミッティーのチェアマンを務められていますが、彼との出会いは色々な意味で大きかったですね。
またその時のセッション・チェアマンがトム・ホルマン氏で、私はその時初めてホルマン氏に会ったんですが、AESで初めての講演で5分オーバーしてしまい、えらく怒られました(笑い)
あと、当時SHUREのボブ・シューレン氏もこの時が最初で、今はシューレン氏はウィスロー氏とともにAESの技術委員会チェアマンを務められています。
サラウンドで色々なところへ行っているうちに、そういう出会いがあって友人ができるというのも、AESなどに参加したときの大きな収穫だと思います。色々な分野の第一線の方々と情報交換ができますので。
深田:私が挙げるとすればまず沢口さんなのかもしれませんが(笑い)やはりウィスローさんですね。色々と面倒をみて頂きました。他にもたくさんいますが、とにかく会うとすぐ友達になってしまいますので。
私はずっと音楽をやって来て良かったと思うのは、音を聴けばその人の考えていることが大体分かるんですね。これはお互いにそうなので、音を聴いてその方向性が合っていれば、音を聴いた瞬間に友達になれるんです。ですから、ジョージ・マッセンバーグ氏にしてもマイケル・ビショップ氏にしても、AESのワークショップなどを一緒にやった時から友人になりました。そういう意味でも、AESというのはとても素晴らしい場ですよね。
沢口:それは当然、ハイレベルにいる人同士だからこそで、逆に言うと深田晃という人間がそういうレベルにある作品をつくっているということです。
面白い話として、1997年のInter BEEでサラウンドのシンポジウムをやったんですが、その時にレコード会社DMPのトム・ジャングというサラウンドを手掛けている人が参加してくれることになり、デモルームで素材チェックをしたんです。そこで深田さんの作品をかけた時に彼の血相が変わりました。「これは誰がつくったんだ!?」と。その後もジャング氏は、その深田さんの作品をじーっと聴いていました。
というのも、その時点ではそこまでの完成度のある作品は彼自身も聴いたことがなかったんですね。彼はまだサラウンドの実験をしているところで、ちゃんとしたサラウンドの音楽作品を聴いたのは初めてだったわけです。彼はものすごく興奮していました。
深田さんの作品の素晴らしい点として、広いスペースであろうが、普通の小さな部屋であろうが、ちゃんとしたスタジオの中であろうが、どんな環境で再生してもみんな一様に気に入ってくれるんです。聴く場所を選ばないバランスの良さと言いますか、これはすごいことだと思いますね。
深田:苦労しているんです(笑い)。
私とジャング氏とはその場で友人になったわけですが、その年のAESではあるセッションでともに同じパネリストとして参加しました。その後、1998年のAESサンフランシスコでサラウンドをテーマにしたワークショップがあり、彼から「推薦するからお前も出ないか」という誘いがあって私も参加しました。
沢口:また、ちょうどそのInter BEEのときに同席していたのが、ドルビー社のダグラス・グリーンフィールドという方で、この人はアメリカ・ハリウッドでサラウンドの面倒を見ている方ですが、彼も深田さんのサウンドを聴いてファンになった1人です。それ以来、事あるごとに来日してくれたり、色々な所で会って食事したりしています。
これらの方々はみんなそれぞれ共通の友人ですので、その友人の紹介からまた友人が増えて、一緒に仕事をしたり情報交換していく中で、必ず今まで知らなかった世界が見えて来ます。それを自分の仕事の中で生かすことは当然できるでしょうし、とにかく一度飛び出してみる、参加してみる価値は絶対にありますので、興味のある方はどんどんAESに加わって頂きたいですね。
―― あと、昨年の放送技術セミナーで沢口様からご紹介のあった、北極でサラウンド収録をしてドキュメンタリー作品をつくったすごいサラウンドマン、オーストリア放送協会のフロリアン氏との出会いをお聞かせください。
沢口:彼を初めて知ったのは、1999年のIBCアムステルダムでのサラウンドのカンファレンスです。その時に彼自身は来なかったんですが、当時SSLのマーク・ヤング氏が「面白い作品がある」と持ち込んだデモ、それがフロリアン氏のつくった北極のサラウンド・ドキュメンタリーだったんですが、それを聴いた時に私は鳥肌が立ちましたね。ちょうど先ほど話のあった、トム・ジャング氏が深田さんの作品を聴いて「これは誰がつくったんだ!」と言ったのと同じ感覚です。これは本当にすごい作品です。
オーストリア放送協会にこんなすごい人がいるとこの時初めて知りましたので、是非コンタクトしたいと思い、マーク・ヤング氏にフロリアン氏のメールアドレスを教えてもらって、「君の音をIBCで聴いた。素晴らしかった。是非おめでとうを言いたい。」とメールを打ったのが最初です。
このIBCやAESという世界の場というのは、世界のトップの人がトップのものを持ち寄る場ですから、そういう意味でも参加する価値はありますね。
―― ところで、日本国内でのサラウンドに関した人との出会いというのはいかがでしょうか。
深田:国内では、JVCの高田さんや元コロムビアの高橋さんなど、やはりサラウンドをやっていると、同じくサラウンドに取り組まれている人に目が行きますから、そういう人との交流もどんどん増えていますね。
沢口:他には、今のAES日本支部長であるビクターの鈴木さん、また作曲家の冨田先生もずっとサラウンドに取り組まれている1人です。
あと身近なところで言うと、SACDマルチでがんばっているオノ・セイゲンですね。彼は今やサラウンドの信者となって、布教活動も精力的にやっています(笑い)
深田:彼とは私も音楽で色々と一緒に仕事をしていますが、彼は最初は、サラウンドに全然興味がなかったんですよ。それでどんどん聴かせて行くうちに、本人も面白いと思ったんでしょう。今やサラウンド、マルチチャンネルにしか興味がないと公言しています。何か洗脳してしまったみたいで、悪い方に足を踏み入れさせたかなと(笑い)
沢口:あと、放送で言うとテレビ朝日映像の井上さん、WOWOWの中村さん、ポスプロで言うとソニーPCLの染谷さん、彼等もそれぞれに、サラウンドに積極的に取り組んでいます。
深田:この間、名古屋で地上デジタルの会合がありまして、そこでサラウンドの解説をということで講師として行ったんですよ。スピーカのセッティングの仕方から制作の解説、作品のデモまで全部やったんですが、若い人がたくさんいまして、やはり地上デジタルになればサラウンドができるという期待を皆さん持たれていましたね。皆、サラウンドをやりたいということで、すごい熱気がありました。その時に、「こういう人達が次のサラウンドをつくって行くんだな」と確信しました。今後色々な放送局で、サラウンド作品がどんどんつくられていくことを大いに期待しています。
Fukada-Tree(フカダ・ツリー)
―― さて、深田様と言いますと、お名前を冠したサラウンドのマイキング手法“Fukada-Tree”がつとに有名ですが、これが生み出されるまでの経緯などをお聞かせください。
深田:これは私の音楽のサラウンド収音のベースになっているんですが、これを1997年のAESで発表する時に沢口さんから「名前を付けた方がいいよ」とアドバイスされまして、Fukada-Treeと名付けられました。
ただこれも、色々なことを試してみた結果なんですよ。アコースティック音楽の生音を録る時にやはりうまく行かないことが多くて、じゃあどうしたらいいのかということで、例えば色々な指向性のマイクを使ってみるとか、とにかく考えられることはすべてやってみました。理論ではなく、日常の仕事の中であれこれやってみた結果、感覚的に「こういうふうにやればうまく行く」というのが一つの形になった、それがFukada-Treeというわけです。ただ、これが絶対ということではありません。こういうふうにすればある程度矛盾しない形で音が録れるという一つの提案とお考えください。
これを初めて人の前で発表したのは1997年のAES東京でしたが、このときはまだ方式の名前も付けておらず、その年のAESニューヨークで発表する時に沢口さんのアドバイスがあって、ここで初めて“Fukada-Tree”となりました。私自身が名付けたのではなくて、名付け親は沢口さんです(笑い)
沢口:このネーミングは、すでにあったマイキング方式の“Decca-Tree(デッカ・ツリー)”をヒントにしました。Decca-Treeは、イギリスのDeccaというクラシック専門のレーベルが、自分達で開発したマイキング方式に名前を付けたものです。
ステレオのマイキングではすでに色々な方式が世の中に発表されていますが、サラウンドでも名前を付けた方が覚えられやすいですし、またアピールもできると考えて、深田さんが開発した方式ですから“Fukada-Tree”がいいのではないか、と本人に提案したわけです。
―― AESニューヨークで初めて世界に発表されたわけですが、その時の反響はいかがだったでしょうか。
深田:その時は特に反響というものはなくて、「ああ、そういうやり方でやっているんだな」という感じでしたね。
ただその後、Fukada-Treeを学術的に研究した発表をする方が出てきました。これは決して悪いことではなくて、今までになかった方式を皆さんが考察するに値するものだったというところですか。
沢口:これは嬉しかったですね。そういう世界の場で、日本人が開発した一つの方式が議論されているわけですから。その後、サラウンドのマイキング手法に名前を付けたものが色々と出てくるようになりました。INA-5やIRT-CROSSといったものですね。おそらく、サラウンドのマイキングを一つの形として提示したのは、このFukada-Treeが初だったと思います。
深田:Fukada-Treeのベースにあるのは「拡がり感を録る」ということです。前方の3つのマイク、L, C, Rのそれぞれの間隔を批判する方もいるんですが、これは定位が理論上では良くないというためです。しかし、そういう人も実際に録った音を聴くと、だまってしまうという…(笑い)私は音楽をつくる時、その何を伝えるかというのを常に考えていますので、仮に理論上では部分部分の定位が悪かったとしても、トータルでの音楽のイメージがうまく表現できるのであれば、私はその方が望ましいと思っています。
サラウンドの基本デザインパターン
―― 沢口様はずっとサラウンドに取り組んで来られて、そのデザインの基本パターンというものを世の中に提示されています。これはサラウンド制作者にとっての指針となっていますが、こういう形にまとまるまでを振り返って頂ければと思います。
沢口:私はラジオドラマ、もしくはハイビジョンなどのドラマを手掛けて来ました。我々の作業というのは、セリフ・音楽・効果音と色々ある音素材をいかにつくり込んで行くか、そういうサウンド・デザインが勝負になります。音楽の場合はマイキングが重要なポイントになりますが、その辺のアプローチは違うところですね。
それで、自分がずっとサラウンド作品をつくって来た中で、やはり色々と試行錯誤があったわけですが、きっとサラウンドの音のスケッチの仕方に何か基本となるものがあるんじゃないか、と思ったわけです。
そこで、自分が今までやってきたことや他の方の例を振り返って分析してみたところ、サラウンドのサウンド・デザインは大きく分けて6つに分類できるというところに行き着きました。この6つの基本パターンは主にドラマ制作においてのもので、音楽の場合には大きく3つに分けられると思います。
深田:この基本パターンというのはまさに的を得たもので、音楽の場合でもこれをベースにすることですべて表現できます。特にポップ・ミュージックをつくる時は、ドラマ制作的な発想でできると思います。
作品を頭の中でイメージする時、ここはどう表現しようかと考える時に、こういうベーシックなイメージがあると、ここはこの手法を使ってというように音を設計しやすいんです。やはりラフでもいいから最初に音の設計図がないと、現場で全部やっていたら、それこそまとまりがつかなくなります。その最初の設計図を描くための、大変便利なツールですね。
沢口:サラウンドに向き合う時の取っ掛かりとしては、こういうものがあると役立つと思います。いわゆるその設計図が描けなければ、その先へ進めないわけですから、これを参考にしてもらえばそこで止まってしまうということはまずないでしょう。
ただこれも、この6つと3つで決まりということではなくて、そこから発展して10パターンなり15パターンなりとなってくれば、それは大いに良いことです。これからサラウンド作品をつくられる方には、この基本でザインパターンやFukada-Treeなどを一つの参考として頂いて、そこから自分なりに応用して、是非ご自分のサラウンドというものを追求して頂きたいですね。
最後に―読者へのメッセージ
―― それでは最後に、これまでのサラウンドへの取り組みを通して感じられたことやサラウンドに対しての想い、また読者へのメッセージなどをお願いします。
沢口:私の場合は、ずっと音の表現というものをやって来た中で、2ch゛は表現しきれないという壁を乗り越えるための一つの方策として、サラウンドに辿り着いたというのが現状です。その結果はとても素晴らしいもので、自分の表現がより容易にできるツールとなっています。
このきっかけは、やはり興味を持つということですね。そして疑問に思うということ。どうしてこうなるんだろう、他には何かないんだろうか、ここはどうなっているんだろうか、なぜあの人はこうやっているんだろう、というように、疑問を持つことが大事です。その上で、自分なりに勉強して工夫するということ。Fukada-Treeはその良い例だと思います。
そして何か一つの形になったのであれば、それを自分だけのものとせず世の中に発信していく、できれば国内だけでなくワールドワイドに、というように、どんどん自分の世界を広げていって頂きたいですね。
それはすべて「半歩踏み出す勇気」があればできます。“一歩”でなく“半歩”でいいんです。これはサラウンドに限らず何においても共通だと思うんです。AES等の場に行って分かったことは、世の中というのは、そういう半歩踏み出す勇気を持って人とは違ったことをやれば、それなりのふさわしい評価をしてくれるということです。それがまた次のステップへの元気の源となるわけです。
―― 沢口様のお話はいつも含蓄に富んでいて、何か世の理を説く高僧と言いますか、伝導師のように私は感じてしまうのですが(笑い)
深田:いわゆる伝道師の姿が目に浮かびますね(笑い)
沢口:まあ、私も色々と苦労して来ましたから(笑い)
サラウンドに関しても最初の頃は本当に大変でしたが、特にここ2~3年で羽ばたいてくれそうな気運になって来ましたから、本当に嬉しく思っています。
深田:私の方で言うと、モノをつくる人のスタートには、何か感動があったと思うんですよ。その時の感動をもう一度という気持ちが、持続させてくれているような気がします。
最近サラウンドの仕事で、単にダウンミックスするのではなくサラウンドとステレオを別々につくることがあるんです。その時は最初にステレオをつくります。なぜかと言うと、先に5.1chをつくってしまうとその後ステレオをつくる時につまらなく感じてしまってつくれなくなってしまうんです。
例えば、まず音楽を5曲ステレオミックスでつくります。終わりました。そして1週間後に5.1chをつくります。これは最初のステレオミックスのデータがあるのでそれほど時間は取られません。そして5.1chをつくって作曲家の方や関係者に聴いてもらうと、皆すごく感動するんです。「ステレオでも良いと思ったけど、サラウンドだとこんなにも表現力があるのか」と。これは結構大事で、順番を間違えると「なんだ、ステレオはちょっとつまらないんじゃないの?」となる可能性が高いです(笑い)
やはりこういう仕事をやっていると、何か人に感銘を残したいと思うんです。どこか人の心が動いてくれるように何とかしたい、そのツールとして、サラウンドは非常に素晴らしいものだと思っています。自分のつくった作品が誰かに感動を与えることができれば、それが一番嬉しいですね。
メッセージとしては、これまでにも再三出てきていますが、まず興味を持つということですね。どうやって興味を持つかと言うと、聴いてみるしかない。例えば、沢口さんからサラウンドの話を聞きました。じゃあ、サラウンドとはどういうものか、DVDを買ってしばらく聴いてみよう、そして「ああ、なるほど」と思えればきっかけになるかもしれません。
例えば今、私は自分でやっているステレオ録音のマスターは全部ハイビット・ハイサンプリング(24bit・96kHz)なんですよ。実際の放送ではもちろん違うんですが、私以外はそんなこと誰もやっていないと思います。なぜかと言うと、やはりそちらの方が自分で良いと思うからです。それで、アシスタントの若い人に聴かせると「やっぱりこっちの方が良いですね」となるわけです。これも聴いてみて、初めて分かることですよね。これと同じことがサラウンドにも言えるわけです。
沢口:そう、まず「聴いてみよう」と思うきっかけを我々はつくっているんです。ですから実際の作品も、ステレオでの放送が前提であっても、あえて最初はサラウンドでつくったりするわけです。それは当然、今後のためのノウハウの蓄積になりますし、その作品を何かの機会で聴いた人の中で興味を持つ人がいればなお結構ですし。
深田:現業の中でも、私の場合はステレオ収録の時でも必ずサラウンドのマイクを立てています。若い人が「このマイクは何ですか?」と聞いてきますが、「これはサラウンドミックスするために立てているんだよ。あとで時間があればやってみなさい。」と答えます。素材があればやってみることはできますので、そういうチャンスを与えてあげているんです。また自分自身でも、いつサラウンドの話が来てもいいように、すべてサラウンドの準備をしています。ですから私のところに来れば、あとはもう「やるか、やらないか」ですね。他にはそう、沢口さんと飲むことかな(笑い)
沢口:いつでもどうぞ(笑い)
今はメールという便利なものがありますから、私でも深田さんでも連絡をくれれば、疑問があればお答えします。私がフロリアン氏に初めてコンタクトしたのもメールでしたし、そういう「半歩踏み出す」行動というのは、やろうと思えばできるわけですから。是非サラウンドを通じて友人になりましょう(笑い)
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「サラウンド入門」は実践的な解説書です
May 10, 2003
30年ぶりのピンクフロイド「Dark side of the Moon」5.1CH SACD
S.P03-05 抄訳:沢口真生
[ はじめに ]
ピンクフロイドの作品「Dark side of the Moon」が発売から30年目を迎えた。
これまでも幾度となく再発再々発が行われ、全世界での売り上げは、3500万枚にも上っている。すぐれたロック音楽はいつの時点でもその時の最高の技術で再発できることを今回も証明している。それはDSD-SA-CDによる5.1CHサラウンド版として実現した。こうした場合に困難さを伴うのは、すでにステレオ版としてリスナーのなかに定着したピンクフロイドの音楽をどう向上できるか?である。ピンクフロイドと20年来のつき合いであるプロデューサー・エンジニアのJames Guthrieは「はたして5.1ch MIX が今以上に彼らの持つ音楽のエネルギーを高められるか?単にサラウンドになっただけでは、全く価値がなくなってしまいますので。」とコメントしている。
ヒントは、1973年にAlan Personsが試みとして行った4CHのサラウンドMIXがある。これをさらに発展できるのではないかと考えたが、さらに課題は「どんなメディアに記録するのがベストであるか?」にあった。結論として採用したのは、Wレイヤー構造で通常のステレオも再生できるSA-CDであった。またこの前例として2002の8月に発売され好評であるローリングストーンズのアルバムがあった。これは2CHステレオのみであるが、そのすぐれた品質で支持されているSA-CDである。
[ 制作の実際 ]
ビートルズやビーチボーイズの録音も同様であったが、ピンクフロイドの録音も2台のアナログマルチトラックレコーダが使用されている。16トラックがすべて使い切るとこれをラフMIX したものが2台目の16トラックレコーダへDolby-Aで録音される。こうした過程を経て録音が完了したテープにはオリジナル・1回コピー音源・2回コピー音源・・・などが混在したものとなる。
CDの64倍のサンプリング周波数を持つDSDでは、この音質差も気になる点である。そこでオリジナルテープから全ての音を同期して再生することがこの点では最良の解決方法である。課題は1973年代には、複数台のレコーダをタイムコードで同期するといった方法もそうした考えもがなかったという点でこれを可能にしたのはアビーロードスタジオのアーカイビストである。
マスターテープのコピーが保存された上で、オリジナルテープはGuthrieのスタジオ「das boot」へ送られた。テープはアライメント信号も入っておらず(当時アビーロードではテープが他に持ち出されるといったことを想定していなかった)。多くの時間を費やして同期したトラックが出来上がり、いよいよMIX の段階までにくることができた。MIX に使用したモニターは、ATC SCM150ASLがメインにSCM0.1-152台がLFE用に使用された。「スピーカの選定は私のスタジオで最も最優先の機材です。これらは構成が簡易ですばらしいサウンドを再現し定位も位相特性も大変すぐれています」
5.1CH MIXはバンドのメンバー抜きで行い、その結果を個々のメンバーへ送って承認を得るという方法で行われた。経過よりも結果を重視したからでdas bootスタジオでMIX した5.1CHが同一モニターを用いて再生された。
完成したSA-CDは、Capitol recordとSONY Electronicsにより2003年3月24日にNYのHayden Planetariumで視聴会が行われた。参加したFrank Wellsは「サラウンド音楽がもはや一部の興味である時期は過ぎメインストリームになったことを示す良い例である。」と述べている。発売は3月30日からであった。(了)
「サラウンド制作情報」 Index
「サラウンド入門」は実践的な解説書です
[ はじめに ]
ピンクフロイドの作品「Dark side of the Moon」が発売から30年目を迎えた。
これまでも幾度となく再発再々発が行われ、全世界での売り上げは、3500万枚にも上っている。すぐれたロック音楽はいつの時点でもその時の最高の技術で再発できることを今回も証明している。それはDSD-SA-CDによる5.1CHサラウンド版として実現した。こうした場合に困難さを伴うのは、すでにステレオ版としてリスナーのなかに定着したピンクフロイドの音楽をどう向上できるか?である。ピンクフロイドと20年来のつき合いであるプロデューサー・エンジニアのJames Guthrieは「はたして5.1ch MIX が今以上に彼らの持つ音楽のエネルギーを高められるか?単にサラウンドになっただけでは、全く価値がなくなってしまいますので。」とコメントしている。
ヒントは、1973年にAlan Personsが試みとして行った4CHのサラウンドMIXがある。これをさらに発展できるのではないかと考えたが、さらに課題は「どんなメディアに記録するのがベストであるか?」にあった。結論として採用したのは、Wレイヤー構造で通常のステレオも再生できるSA-CDであった。またこの前例として2002の8月に発売され好評であるローリングストーンズのアルバムがあった。これは2CHステレオのみであるが、そのすぐれた品質で支持されているSA-CDである。
[ 制作の実際 ]
ビートルズやビーチボーイズの録音も同様であったが、ピンクフロイドの録音も2台のアナログマルチトラックレコーダが使用されている。16トラックがすべて使い切るとこれをラフMIX したものが2台目の16トラックレコーダへDolby-Aで録音される。こうした過程を経て録音が完了したテープにはオリジナル・1回コピー音源・2回コピー音源・・・などが混在したものとなる。
CDの64倍のサンプリング周波数を持つDSDでは、この音質差も気になる点である。そこでオリジナルテープから全ての音を同期して再生することがこの点では最良の解決方法である。課題は1973年代には、複数台のレコーダをタイムコードで同期するといった方法もそうした考えもがなかったという点でこれを可能にしたのはアビーロードスタジオのアーカイビストである。
マスターテープのコピーが保存された上で、オリジナルテープはGuthrieのスタジオ「das boot」へ送られた。テープはアライメント信号も入っておらず(当時アビーロードではテープが他に持ち出されるといったことを想定していなかった)。多くの時間を費やして同期したトラックが出来上がり、いよいよMIX の段階までにくることができた。MIX に使用したモニターは、ATC SCM150ASLがメインにSCM0.1-152台がLFE用に使用された。「スピーカの選定は私のスタジオで最も最優先の機材です。これらは構成が簡易ですばらしいサウンドを再現し定位も位相特性も大変すぐれています」
5.1CH MIXはバンドのメンバー抜きで行い、その結果を個々のメンバーへ送って承認を得るという方法で行われた。経過よりも結果を重視したからでdas bootスタジオでMIX した5.1CHが同一モニターを用いて再生された。
完成したSA-CDは、Capitol recordとSONY Electronicsにより2003年3月24日にNYのHayden Planetariumで視聴会が行われた。参加したFrank Wellsは「サラウンド音楽がもはや一部の興味である時期は過ぎメインストリームになったことを示す良い例である。」と述べている。発売は3月30日からであった。(了)
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