はじめに
2024年第96回アカデミーBEST SOUNDには、大変珍しいProduction soundの録音と編集を手がけたポーランドのTom Willersと控えめながらアウシュビッツのホロコーストを心象サウンドで表現したJohnnie Burnの二人が受賞しました。予想では、Oppenheimerではと言われていましたが、今回は、抑制された映像表現に応じた2人の功績を紹介します。フォーマットは、5.1chですがほとんどは、70年代を想起するような典型フロントL-C-Rです。
1 制作スタッフ
Director: Jonathan Glazer
Sound Design: Johnnie Burn
Final Mix: Johnnie Burn
At Halo Post London
Music: Mica Levi
Music rec-mix: Mat Bartram/David Wrench at AIR studio London
Foley Artist: Jacek Wisniewski
Production Sound: Tom Willers
Sound Recordist: Tom Willers Max Behrens Simon Carrol
2 ストーリーと主要登場人物
1940-1945年まで設置されたポーランド・アウシュビッツ強制収容所の初代所長として赴任してきたルドルフ・ヘスとその家族の1943年当時の日常を描いています。妻のヘドウイッグ・ヘスは、4人の子供ともに自分が夢見た理想の生活を地元使用人とともに築いています。屋敷には、広大な庭、花壇、菜園、温室。そしてプールと生活を満喫しているヘス一家です。
しかし壁を隔てた隣では、日常的にホロコーストや強制労働・銃殺刑により多くの人びとを死に至らしめる殺戮が行われ連日焼却炉の煙突からは死体を焼く煙が立ち上がっていますが、ヘス一家は、ほとんど無関心に彼らの平和を感受しています。
ヘス家の使用人の中に一人若く小柄な娘アニエラが働いていますが彼女は、かつてポーランド・レジスタンスに参加し反ナチズム抵抗活動をしていた一人で深夜密かに収容所の人々に食べ物の差し入れを行っています。
ある時ヘスにオラニエンブルグへの転勤命令が出ますが、妻は、今の生活から離れたくないと異動を拒みます。単身赴任したヘスは、オラニエンブルグでの収容所所長全体会議で70万をこえるユダヤ人移送計画が審議されヘスが立案した計画が採用されこれが上司であるハインリッヒ・ヒムラーの目にとまり、実行責任者として再びアウシュビッツ強制収容所へ復帰します。どうやって全員をガス殺戮するか、、、、
タイトルの「The Zone of Interest(関心領域)」は、第2次世界大戦中、ナチス親衛隊SSがポーランド・オシフィエンチム郊外にあるアウシュビッツ強制収容所群を取り囲む40平方キロメートルの地域を表現する隠語として使われていました。
3 起承転結毎の特徴的なサウンド
いわゆる映画的な感情の起伏やダイナミックな映像表現は、一切なく、ただ淡々とヘス一家の日常が10台の固定カメラで捉えられていますので明確な起承転結は、わかりにくいのですが、一応展開に沿って区切ってみました。
3−1起 000h00:00-49m48sec
49分と長いですが、この中でヘス一家の日常が淡々と紹介されます。家には、4人の子供3人の使用人がおり、たまに近所の人々も来て世間話をしています。
常に固定カメラで客観的なカットの連続ですがその背景には、収容者の壁と煙突が見えるだけです。
⚫️ オープニングの音楽
音楽は、基本シンセサイザーとボーカル素材を合成した一種のミュージックコンクレートで、映像の編集リズムに合わせた特定のキューで変化する作りではありません。基本2CHmixでそれを3CH 2.1CH 3.1CH あるいは5.1CHにremixしています。
⚫️ ヘスの誕生日から荷物が届くまで
この背景音になっているのがガス室・焼却炉から出ている不気味な低域で合成してアンビエンスです。ヘス家の日常シーンには、レベルの大小はありますが常に背景音としてこの合成音が、アンビエンスの役目をしています。
もう一つは、ヘスの庭から収容所の壁に近接した時のアンビエンスは、これにLFEが付加され距離感の違いを出しています。
アンビエンス基本のスペクトラム
⚫️暗視カメラ・イメージシーンとME
少女アニエラが収容所の飢えた人々に深夜食料を差し入れするシーンでMEが2ヶ所使われています。焼却された灰の山にそっとりんごなどを置いていくというシーンです。
⚫️ヘス・アップとロングの阿鼻叫喚
ヘスが庭を眺めているアップにロングでガス室アンビエンスに加えて子供から老人までの阿鼻叫喚が響いています。収容者内で行われている殺戮の様子を様々な音だけで表現した一例です。
⚫️赤い花クローズアップとME
庭に咲いている花が突然真っ赤な画面に転換する印象的なカットです。10“という短いMEですがフルビットLFEが強烈なメッセージを表しています。
⚫️ヘス妻に異動を告げる
近所の家族を招いて庭で食事会が行われヘスが妻ヘドウイッグにここを離れてオラニエンブルグへ移動になると告げます。そのアンビエンスには、収容所の収容者で結成されたオーケストラの演奏が響いています。
3−2承 49m48sec-01h17m27sec
⚫️窓外を眺める息子 1:16‘00“-16‘55“
このシーンでは、アンビエンスに加えて収容所の看守が叫ぶ声やリンゴを奪い合いする人々の声、そして連行した人々を川に沈めろ!と叫ぶ看守の声などが響きています。
3−3転 01h17m27sec-1h26m40sec
⚫️所長会議終了後のアンダー・スコアー 1:21’41”-22’37”
ここは珍しく5.1CH MIXがされています。
3−4結 1h26m40sec-1h65m00sec
⚫️ エンディング・テーマ 1:38‘15“-1:45’00”
6‘19“のエンディングテーマで、5.1CH MIXとなっています。
エンディング・音楽のスペクトラム
4 PRODUCTION SOUNDの実際
Production soundの録音を担当したのはポーランドのTom Willersで、インタビューによれば、撮影現場の40ポイントに各種マイクを設置し20トラック同時録音しています。主要出演者は、ワイアレス仕込みマイクを設置し、庭や花壇では、「Plant Mic」と呼ぶ仕込むマイクを設置したそうです。ワイアレス・システムは、LECTROSONIC社の様々なタイプを使用しています。
1シーンごとに20トラックで録音し、それらを約8ヶ月かけてpre-mixした努力は、まさにBEST SOUNDに相応しい功績だと思います。参考にこうしたマルチトラックProduction録音を1975年に最初に行った、Jim Webの資料がありますので紹介します。
参考資料:1975年公開『NASHVILLE』で初導入された8 トラック・プロダクションワークフローとプロダクションMIXER Jim Webの功績
Jim Webは、同僚のJack Cashinとともにロバート・アルトマンの『ナッシュビル』、『バッファロー・ビルとインディアン』、『3人の女たち』、『ある結婚式』といった一連の映画でマルチトラックレコーディングによるプロダクション録音システムを開発し、映画で、複数のキャストの台詞や、交錯するストーリーラインを録音したマルチトラックプロセスのパイオニアです。
監督のR.アルトマンは、群像劇を同時に撮影し、それぞれのセリフも同時に録音することでリアリティを重視する撮影を望んでいました。アルトマンの撮影監督であるポール・ローマンは、ウェッブがグレイトフル・デッド、アイク&ティナ・ターナー、レオン・ラッセル、ピンク・フロイド、カーズ、ジョン・ファーラーといったアーティストのロック・コンサートやコンサート映画・スタジオ・セッションのロケ録音で発揮したマルチトラック技術を評価していましたのでジム・ウェッブをProduction Mixerに推薦しました。彼は、アルトマンに『それを可能にするのは、全員にラジオ・マイクを装着して同時に録音することだ』と提案しました。
一方同僚のジョンは、John Stephensが独自に開発していたバッテリー駆動可能なマルチトラックレコーダーに着目し、これをメインとしたプロダクション・録音用のシステムを新たに構築したのです。そして、これがロバート・アルトマン、ジャック・カシン、ジム・ウェッブの一連の映画におけるコラボレーションの幕開けとなったのです。
ジャック・カシンはUSCシネマの卒業生で、開発した録音システムは、スティーブンスの1インチ8トラックレコーダーを使い1トラックをシンク信号に割り当て、7トラックをディスクリート・オーディオ用に使用しました。スティーブンスの1インチ8トラック・テープレコーダーは、キャプスタンなしで作動しプロのオーディオ界ではほとんど知られていませんでしたがこのテープレコーダーに着目したのです。
当時、ポータブルロケ用mixerといえばスイス Perfectone 3CHmixerが主流の時代でした。
翌1977年の映画A.パクラ監督作『大統領の陰謀』でもこのシステムは、活躍しアカデミー賞を受賞しています。
6 サウンド・デザインとFinal Mixを担当したJohnnie Burnの2年に渡る600ページ素材メモと素材録音
制作の2年前に監督からサウンド設計を依頼され2年かけてアウシュビッツに関する資料や音声アーカイブ、地理などを調査し、そこでどんな音が生じていたかをまとめ600ページにわたる資料を作成しています。これは、まさに1977年のStar WarsでBen Burtがアメリカ中を素材収集のために歩いた道のりに相当します。そこで収集した素材は作品の中で
・機械音
・火葬場の音 炎
・長靴 サイレン
・銃声
・叫び声
・収容所オーケストラ
・バイク・トラック・列車
・犬の威嚇
などに活用されました。
叫び声の一つには、2022年パリで行われた労働争議の声もロケーションして使ったそうです。彼のインタービューによればPre- mixまではAtmosフォーマットで用意したが、監督の意向でFinal mixは全てDown mixした簡潔さに落ち着いたそうです。
J. Glazerが目指したのは、恐怖を誇張した表現ではなくBanalityという言葉を使っていますが多分シンプルさや平凡さといった削ぎ落とされた本質のみを残すアプローチだったことがスタッフのインタビューから伝わってきます。
すなわち、準備までは、あらゆる可能性を考えて最大限の用意をしておき、最終的には、どんどん簡潔化しているわけです。
7 ミュージックコンクレート
音楽も同様で映画の約50%を占めるスコアリング音楽を制作していますが、最終的には4‘39“しかなく0.04%の使用となった簡潔さも同様だと思います。
終わりに
監督のJonathan Glazerが目指した、アウシュビッツの現実を客観カメラ視点という抑制的な映像・音響表現するという意図は、見事に達成されています。
・映像では、
略奪した衣類やコート、ダイアモンド、
息子がおもちゃにしている歯
ヘスの屋敷の壁に撒く焼却した灰、
ロングショットで常に空に流れていく煙突の煙、
川遊びしているヘス家族に上流から流れてくる灰、
ヘスの家にいるポーランドの使用人少女がうづ高く積まれた灰の山を片付ける人々のために深夜にリンゴを置いていく暗視カメラ映像
などで抑制したホロコーストを表しています。
・音声では、
ヘスの屋敷越しワイドショットに聞こえるOFFの銃声、
機械音、
叫びやバイク、鉄道、
囚人オーケストラ、
犬の唸り声、
全編BGMのように流れる焼却の低音、
少女が灰の中から見つけた缶の中に入っていたヨセフ・ウルフの曲をヘスの家のピアノで演奏する場面などです。
PS: 一方筆者のように作品におけるサウンド・デザインに関心ある立場で言えば1993年S.スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』や2002年R.ポランスキー監督作『戦場のピアニスト』のようなホロコーストの描き方に共感します。多分本作のような作品は、10回ほど熟慮鑑賞をすることでじわじわと進化が発揮されるのではないかと思います。
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